[携帯モード] [URL送信]

泡沫

 みっちゃんは私の前にひとつの鍵をちらつかせると、「これなーんだ」と嬉しそうな声で私に尋ねた。
 もちろんそんなこと急に言われても私にわかるはずがないけれど、その鍵は決して良いものでは無いと言う事はわかった。こんな窮屈な個室のトイレにいきなり押し込まれて、更にみっちゃんのこの嬉しそうな顔、そして弾んだ声。これは絶対にみっちゃんの家の鍵とか、拾った鍵とか、そういう許される範囲のものではない。この嬉しそうな顔は、何かあくどい事を遣らかした証拠だ。
「どこの鍵なの?」
 私が聞くと、みっちゃんは「えー」とか「そんなぁ、どこの鍵と聞かれてもぉ」と甘え口調になり、私を上目遣いで見つめる。みっちゃんは調子に乗るから、ここでドキンとしたとかは絶対に言わない。みっちゃんは、ね? と私に言って、首を傾げた。
「ほら、めでたく中二になったことだしぃ、私としてはね、ちょっとね」
 そんな可愛い子ぶられても私は嬉しくないよ、と喉まで出てきたけれど飲み込む。これはどうしよう。私はため息が出そうになった。
 このみっちゃんの悪事にまた巻き込まれてしまう。私は平穏無事な中学二年生を過ごしたかったのに、進級早々、また何やらに巻き込まれるみたいだ。私ごときがみっちゃんの陰謀から逃れることは出来ない。そんなことは長い付き合いから察していたが、こんなに早い時期に来るとは。再びため息が出そうになったが、息を止めて抑えた。
「だからね、ハナちゃんわからないの?」
「わからないの? と言われても…」
 みっちゃんは鍵を手のひらの中に収めると、信じられない言葉を吐いた。私は聞き間違えたのかと思って「え?」と聞き返す。
「だから、これは屋上の鍵なの」
 屋上の鍵。またみっちゃんはやらかしてくれた。
 私たちの学校の屋上は立ち入り禁止だった。きっと最近はどこの学校も立ち入り禁止なのが多いだろうけど、私の学校も例外ではなく、事故や飛び降り防止のためにとりあえずは立ち入り禁止になっていた。
 とりあえずというのは、立ち入り禁止となっているのだが、職員室にある、あらゆる場所の鍵が入ってる箱の中に屋上の鍵は入っているのだ。だから取ろうとすれば取れるのだが、今まで聞いたことのある話の中では屋上の鍵を盗んで実際に屋上に行った人は知らない。それをみっちゃんがやってしまうとは。今思いかえせば、みっちゃんならやりかねない。どうして今まで考えなかったんだろう、私。今度のため息は我慢出来ずに思わず出てしまった。
 みっちゃんを見ると、相変わらず楽しそうな顔で鼻歌まで歌っていた。
「それ、戻したほうが、いいんじゃない?」
「なーに言ってんの! 折角私の家の鍵を犠牲にして取って来たのに、今更返すなんてとんでもない。やるに決まってるでしょ」
 何を言うのかはわかっていたが、とりあえず聞いてみる。答えはひとつ。私は想像して、顔が引きつる。
「どこに?」
 目の前のみっちゃんはニヤリと笑って「行くのよ、屋上に」と言った。
 私は肩を落として、やっぱり、とうな垂れた。
「なーにそんな嫌そうな顔してさ。私がどれだけの苦労をして取ってきたと思ってんの。ほら、行くよ」
 みっちゃんは私の腕を掴むと、トイレの鍵を開けて出ようとする。え、え、とうろたえる私を他所に、みっちゃんはやっぱり楽しそうだ。
「み、みっちゃん、授業は?」
「勿論サボりに決まってるじゃん」
 いけない事しているのに誇らしげにそう言うみっちゃんは、みっちゃんらしい。楽しいことが大好きで、つまらないことが大嫌いで、つまらなくなると自分から楽しいことを探しに行く。私には真似出来ないことをみっちゃんはいつも軽々とやってのける。やんちゃすぎてクラスから浮いてるみっちゃん、大人し過ぎて浮いてる私、私たちをみっちゃんはゴールデンペアと言う。こんなつまらない私なのにみっちゃんは親友と言ってくれる。ただ、みっちゃんは思い通りに動いてくれる私が好きなだけなのかもしれないけれど。私は結局みっちゃんについていくしかないのだ。みっちゃんの背中を追いかけて、必死についていく。
 しょうがないなぁ、と私はみっちゃんに引っ張られながら、息をついた。
 だって、とっくの昔に授業開始のチャイムは鳴っていたのだから。今から行ってもどうせ遅刻だ。それならいっそのことサボってしまえ。
 みっちゃんを真似て、腰を下げて、忍び足で歩く。そんな私を見てみっちゃんは親指を立てて、息を吐き出すだけのような小さな声でグッジョブと言った。
 みっちゃんは屋上へ向かう階段の途中からスリルのなさにつまんなくなったのか、普通に背中を伸ばして足音も立てて歩き始めた。
 私が「見つかるよ」と小声で言うのに、みっちゃんときたら「いいと思う」と普通の声で答えるのだ。
 私のほうがすごいドキドキしていた。人生初めて授業というものをサボったから。屋上の鍵を盗んで、盗んだのはみっちゃんだけど、授業をサボって立ち入り禁止の屋上に行っていたというのが見つかったら、もしくはお母さんたち両親にばれたら、と考えただけでも身震いするほど怖いのに。
 みっちゃんと来たら、わざと見つかるようなことをして。さっきの「いいと思う」は、多分、見つかったほうが楽しい、という意味の答えだったのだと思う。廊下を先生たちは見回りもしていないし、授業中の先生たちは私たちの存在に気づいてもいない。トイレから階段までは見つかるかどうかのスリル満点の探検だったけれど、階段についてしまったらただ屋上までひたすら階段を上るだけだった。先生に見つかる気配もないこんな探検は、みっちゃんにとってつまらないものへと一瞬で変貌してしまったのだろう。それならば見つかって逃げたり説教されたりしてるほうが楽しい。きっとみっちゃんはそう思っているに違いない。みっちゃんと反対に私はスリル満点で、みっちゃんについてきたことを今更後悔していたのだけど。
 みっちゃんの思惑とは反対に、簡単に屋上についてしまった。みっちゃんは屋上のドアの前に立つなり、「ちぇ、つまんね」と洩らしたくらいだ。私はホッとしていたのに、みっちゃんはつまんないと片付けてしまった。さすがのみっちゃんだと私は思わず感心してしまった。
 みっちゃんが鍵穴に鍵を差し、回すとガチャリと鍵が開いた。唇を尖がらせたみっちゃんはドアを開けるなり、さっきの態度とは裏腹にうわぁと声を洩らした。私も一緒に声を出した。
 ドアの先は一面の青空が広がっていた。緑のフェンスと真っ青な空、白い雲が所々に散らばっていて、その見事な色のバランスが目に入り、少し冷たい風が私たちの体を通り抜けていった。今まで滅多に晴れた空を見上げたことなどなかったから、私は目を見開いて、空と風を感じた。
「ひゃっほう」
 みっちゃんは屋上に飛び出していくと、叫んで、両手を広げて屋上を走り回っていた。小さな子供みたいにはしゃいでいる。
「ね、ハナちゃん!」
 飛行機のように走るみっちゃんはさっきと打って変わってすごく楽しそうだ。私も顔が綻ぶ。
「すごく、すごく気持ちいいよ! やっぱり来て良かったでしょ、すごいよすごいよ」
「うん、うん、」
 私は何度も頷くと、屋上の真ん中まで走っていって地面に両手を広げて寝転んだ。
 私は瞬きをして、空がこんなにも大きかったことを改めて確認する。私の視界には端から端まで、全部が青色だった。吸い込まれてしまいそうで、何度も瞬きをする。まるで空に溶けていってるみたいだ。こんな感覚初めてで、何回も感嘆の声をあげる。すごい、すごい、私が空になっているんだ。空が、こんなにも近くにある!
 いつのまにかみっちゃんも私の横に寝転がっていて、わあと声をあげていた。
「みっちゃん、私来て良かった! 空がこんなに広いなんて。それに手を伸ばしたら空に届きそうだよ?」
「うん、私も鍵盗ってきてよかった」
 空に向かって手を伸ばしてみる。まるで下手糞なCGみたいに手が空の中から浮いていた。空が掴めそうで手を握ってみるけれど、掴めるのは空気だけだった。だけど虚しくなんかならなかった。空は近くにありそうで、でもやっぱり私の手には掴めなくて、だけど、この掴んだ空気、それこそが空なのだ。私は空を掴んだのだ、この手で、誰でもない自分のこの手で。
 しばらく私たちはそうやって空を楽しんだ。興奮がなかなか収まらず、興奮が収まったのは何分もたった後だった。私とみっちゃんはいつの間にか手を繋いでいて、お互いをしっかりと掴んでいた。きっとみっちゃんも私のように空を感じていたに違いない。きっとそうだ。私たちはいつも一緒にいたから、なんとなくわかるのだ。
「ねぇ、ハナちゃん」
 みっちゃんはすっかり落ち着いた声で私を呼んだ。私は、
「なぁに?」
 と空の興奮の余韻に浸った声で答える。
「私のね、お母さんとお父さん、毎日喧嘩ばっかりなんだ」
 私は急に現実に引っ張り戻された。みっちゃんはとっくに現実に戻っていたんだ。少し、恥ずかしく思い、顔が赤くなるのを感じた。
「あの家に戻りたくないな」
 さっきまでの楽しそうなみっちゃんや、膨れっ面だったり小さい子供みたいなみっちゃんじゃなくて、真剣なみっちゃんになっていた。私は目を伏せると、みっちゃんの息遣いを聞いていた。みっちゃんはふざけたり、やんちゃなことはたくさんするけれど、真面目な話をするときは絶対にふざけたり嘘は言わないし、茶化したりもしない。これはみっちゃんの本音なんだ、そう思うと、悲しくなった。
 みっちゃんの両親の仲が悪いとは聞いていたけれど、娘にこんな思いをさせてるとは。みっちゃんの息遣いが少し乱れていた。きっと泣いてる。この青い空は、人を素直にさせる効果があるのか。私は空を見上げて、口を開いた。
「みっちゃんには私がいるじゃない。たまにはふたりでこうやって逃げよう?そしたら少しでも嫌なことは忘れられると思うんだ」
 みっちゃんはしばらくの間黙ってから「うん」と頷いた。
 頑張れってことじゃないよって心の中で何度もみっちゃんに語りかけた。いつも傍にいてくれるみっちゃん。私も傍にいたいと思ったのは本当のこと。
 それから授業終了のチャイムが鳴るまで手を握ったまま空を眺めていた。


[*前へ][次へ#]

第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!