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素晴らしくない世界

 お元気ですか。そちらでは元気でやっていますか? 天国は快適に過ごせていますか。長い間会いに来られなくてごめんね。私、時田君に謝らなければいけないことがたくさんあります。お葬式にも顔を出せなかったし、何より今の私の生き方は、あなたにとっては残酷なことだね。死にたい死にたいって嘆いて、私、あなたの代わりになりたかった。時田君が亡くなってから、死ぬことが頭から離れないの。未だにそれは思っていて、リストカットも繰り返しています。時田君が見たらなんて言うかな。怒るかな、そんなことやめろって。時田君、それは生きたくても生きれなかったあなたにはとても申し訳ないことです。そして私はとても不埒な人間になってしまいました。今現在、不倫をしています。真面目で清く正しかった時田君はやっぱりやめろって言うよね。でもね、私とてもその人のことが大好きなの。これ以上なんも進展もないことだけど、私は今でも時田君を思い出します。彼に抱かれているときも、ときたま、あなたに抱かれたことを思い出しています。私が時田君が初めて抱かれたときは嬉しさのあまり私泣いてしまったよね。それだけあなたが好きで、さっき時田君のお母さんに日記を読ましてもらって、あ、日記も勝手に読んじゃってごめんね。でもね日記を読んで、時田君が私のことを好きになってくれた経緯を話してくれなかったことがようやくわかったよ。なんだかとてもびっくりしました。私ね、時田君を好きになれてよかったよ。あぁ、もうだめだ。涙、我慢できないや。今までありがとう。私、時田君には感謝でいっぱい。私ちゃんと生きるね。時田君の分も幸せになる。まだまだリストカットはやめられないかもだけど、努力もしてみる。あなたにこうして会いに来て、少し考え方を変えようと思ったよ。ありがとう、本当に。
 
 時田君のお母さんが静かに部屋に入ってくる。目を開いてお母さんを見ると、私を強く抱きしめた。お母さんも泣いていた。
「裕ちゃん、ありがとう。生きていてくれてありがとう」
 苦しいのは私だけじゃないんだ。時田君が亡くなって、一番悲しんだのはお母さんなんだ。お腹を痛めて生んだ子供がたった十五年生きただけで、不慮の事故で亡くしてしまって。それがたかが知り合って三年の小娘がそれだけで人生変わってしまった。本当はお母さんのほうが辛いんだ。なのにお母さんはちゃんと生きてる。時田君の死を見つめて、ちゃんと生きている。
 ふと、西条さんの言葉が頭を過ぎる。苦しさに大きいも小さいもない。それがその人の精一杯の苦しみなんだ。そうだ。確かに私も苦しんだ。それはそれでいいじゃないか。苦しみに大きいも小さいもない。
 しばらくふたりで涙を流した。その後、時田君のお母さんにお墓参りに行きたいと言うと、時田君の骨は福島のほうにあるから、遠いから大丈夫よ、と言われた。菊の花束は時田君のお母さんに預けた。
 西条さんに伝えたい。今日の心境の変化を。そして麻衣にもしっかり伝えたい。私は死ねませんと、胸をはって。
 帰り道、麻衣にメールを送った。近いうちに会えませんか、と。
 思い立って、麻衣にメールを打ったあとに西条さんの携帯に電話をかけてみた。切ない気持ちがいっぱいで、気持ちをどうにかしたかった。西条さんの声を少しでも聞けば少しはどうにかなると思ったけど、すぐに留守電話になってしまった。時田君のことを、話に聞いて欲しかった。
 その足で、西条さんの家に向かってみようと思った。昔、偶然西条さんがその家に入るのを見つけてしまった。私が住むマンションの近くで、世間の狭さに驚いたことがある。ストーカーみたいだけど見かけたのは本当に偶然だった。会えなくてもいい。西条さんの空気に触れるだけで、それだけでいい。こんなことするのもストーカーみたいかな。
 路地を抜け商店街に出て、それから踏み切りを渡るとすぐ西条さんの家はある。ヨーロッパ風な可愛い一軒家。出窓もついてて煉瓦作りの、暖かそうなお家。ここに西条さんの全てが詰まっている。
 家の中からきゃぁって小さい子の叫び声が聞こえて、それから高い女の人の笑い声と西条さんの笑い声が聞こえた。
 私は思わず出窓の、カーテンが開いている隙間から家の中を覗き込む。西条さんが赤ちゃんを高い高いをして笑っている。私には見せない顔だ。幸せそう。これだ、西条さんの暮らしは私ではない。この奥さんと子供がいての西条さんだ。
 私は俯いて歩き出す。もうそろそろ潮時だと思った。私と西条さんの関係。こんな風景を見てしまった今、悔しいけれども私には耐えられない。いくら年月がたっても、私と西条さんは結ばれない関係だから。この前、西条さんもいなくなってしまうのでしょうと問いかけたときに西条さんは否定も肯定もしなかった。その沈黙の裏では西条さんもわかっていたはずだ。私たちの関係がいつまでも続かないと。だから何も言わなかった。何も言えなかったのだ。
 胸が苦しい。この一年半は楽しかった。私を理解してくれる人が現れた。それだけで良かった。それあこれから私が生きていくことの糧になるはずだ。
 西条さんがお墓参りに行こうと言ってくれたことで、私の考えも少しは変わった。少しではなくて、だいぶ。時田君のことを思い出して、時田君に話しかけて、時田君の過去を知って、私は時田君に生きていくことを誓った。生きていかなくちゃいけないと思った。それは麻衣にもわかって欲しい。死ぬことでなく、そうやって生きていくかをわかって欲しい。私が今日感じたこと。麻衣がどのような闇を背負って生きているのかはわからないけれど、どんな闇も、神様が与えた試練だ。それはのりこえられるはずだから、神様がその人に与えた試練。私も乗り越える、だからあなたも乗り越えて欲しい。大丈夫、見ていてくれる人はいる。私は西条さんや、時田君が見ていてくれるはずだ。会えなくても、心のどこかで。
 西条さんに別れを告げよう。そうして私は生きていく。乗り越えるために、甘えは捨てよう。私は今まで甘えすぎていたのだ。西条さんに、リストカットに、死にたいと願うことで。
 その日の夜、西条さんから電話がかかってきた。
「今大丈夫なの?」
 そう私が聞くと西条さんは笑って、今買出しちゅうなんだと言った。
「牛乳が切れていてね、奥さんに頼まれちゃって」
「そっか」
 少しの沈黙。西条さんの足音と息遣いが電話越しに伝わる。私はあなたが愛しい。愛おしい。離れるなんて本当は苦しいんだ。別れは今じゃなくていい。最後に西条さんに会って、直接伝えよう。まだまだ心の準備は足りない。
「ねぇ、西条さん?」
 そう言いながら声が震える。次で会うのは最後なんだよ、西条さん。私もあなたも変わらなければならないのだよ。それまでに覚悟を決めるから。
「言いたいことわかってるよ」
 西条さんは、ははっと笑った。俺に会いたいんだろう?
「ふふ。西条さんは私のことはなんでもわかるんだね」
「裕子のことならなんでもお見通しだよ」
 明るい声。私が別れを考えていることは伝わっていないみたい。でもきっとどこかでわかっているはずだよね。西条さんは、なんでもわかってくるから。
「裕子?」
「何?」
「なんで泣いてるの?」
「泣いてないよ?」
「いや、泣いてる。裕子のことはなんでもお見通しだよって言っただろう? だからなんでも言っていいんだよ、俺が裕子を支えるから」
「じゃぁね、今週の木曜日の夜は暇?」
「あぁ、大丈夫だよ」
「じゃぁ七時に新宿の南口で待ち合わせしよう?」
 恵比寿に西条さんの会社があるから、新宿は通り道だ。最後のデートは気合を入れていこう。そのときは泣かない。
「西条さん?」
「うん」
「私、西条さんが好きでした」
 少しの沈黙の後に、西条さんは少しテンションが下がった声で「過去形?」と聞いてきた。
「ううん、現在進行形。今までもこれからも」
 あと何回西条さんに告白できるだろう。きっともうない。次会うときの告白が最後の告白。
 電話を切って、西条さんからもらったメールを見返した。そしたら涙が止まらなくなった。保護したメールはくだらないものばかりだった。
 「裕子に会いたいよ」「今裕子に似てる人を見かけたよ、出会ったばかりのときの裕子に。懐かしくなって胸がキュンとした」「俺の一番の笑顔を裕子にあげる」「俺が守ってあげたいのは裕子だ」
 私は一通ずつ読み返しては削除していく。削除して行くたびに、涙が零れる。
 その日は麻衣からメールの返事は来なかった。


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あきゅろす。
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