[携帯モード] [URL送信]


体のどこかに流れる 第4話
「舞果?」
 武史が私を優しい声で呼ぶ。
「うん?」
「隠し事ない?」
 いきなりの質問に心臓が飛び出るかと思った。
 大輔さんに抱かれてから一ヶ月が経っていた。もう十二月の半ば、十四日の日曜日。その間に三回、大輔さんに抱かれた。会うたびにしていた。もちろん写真の被写体のお仕事もした。カメラを構えた大輔さんは、いつもと違い、凛としていて格好良く見える。その姿にドキっとしたし、素敵に見えた。
 大輔さんに抱かれているのに、私は最初は武史へのあてつけのためにしたと思っていたのに実際に抱かれてみると、それは変わっていった。大輔さんに抱かれることを私が望んでいたのだ。武史なんかどうでもいい。大輔さんに抱かれたい。大輔さんが良い。だけど武史とは別れられずにいた。なぜとは簡単。武史は私を好いていてくれた。そんな人を振るということができなかった。別れを切り出せず、あっという間に時が過ぎていき、気づいたらクリスマスを目前にしていた。
「隠し事って?」
 武史はため息をつくと、少し怖い表情で私を見据えた。こんな顔を見るのは初めてだった。
「この前見たって幸助が言ってたんだ、舞果が細っこい人と一緒に歩いているのを」
 幸助は高校からの友人だ。見られてたんだと思うと少しだけ胸が苦しくなった。
 そういえば武史に大輔さんのことを言っていなかったと思った。手を繋いだのは初めだけで、それからは大輔さんは私の歩くペースに合わせて、だけど私より半歩先を歩いていた。私から手を繋ごうかと思ったけれど、大輔さんは何か恐れているかのように頑なに手を握っていた。
「ん、言ってなかったっけ?」
 と切り出した。
「私カメラマンの被写体してたんだ。きっと見かけたのはその人と一緒にいたからじゃないかなぁ」
 その瞬間武史は顔を綻ばせてなーんだと笑った。俺の勘違いか。
 なんで大輔さんとのことを話さなかったのだろう。話せば、武史の余裕という仮面を剥いだ顔を見られたかもしれなかったのに。私が望んでいた武史の顔を。でも嘘はついていない。抱かれたとは言っていない、今からでも大丈夫。さぁ言うんだ、舞果。言うんだ。
「武史?」
 呼ぶと、「うん?」と嬉しそうな声を出した。
「被写体なんかすごいじゃないか! 舞果は可愛いもんね、彼氏としてすごい嬉しいよ、なんか雑誌とかに載ったりするの? はぁ、すごいなぁ」
 胸が痛む。武史の顔は、私の心を揺らがした。そんなに素直に喜ぶだなんて卑怯だ。私は悪者になりきれないじゃないか。
「カメラマンって言っても、アマチュアだよ、趣味で撮ってるような人」
「どんな人?」
 苦しい。けど、あんなに傷つけてしまいたいと思っていた人なのに、いざ前にすると何も言えない。言えない。傷つけてしまうのが怖い。
「ん、なんか暗い人。だけど魅力的な写真を撮るのよ」
 と笑うと、鼻の奥がツーンとした。やばい、泣いてしまう。私はティッシュを取ると、顔を覆う。ごめんなさい、武史。あなたの恋人はあなたを裏切っています。他の人に抱かれています。一回だけじゃありません、何回も、何回も。そのたびに揺れています。彼と一緒にいれば苦しみもわかってくれる、私を大切にしてくれる、そんなことを思って、抱かれては満足をしています。もちろんあなたのことも思い出します。だけど、柔らかく笑うあなたを裏切ってしまいたいと思っていました。ごめんなさい。
 想いは溢れるのに、それは一言にも発散されなかった。胸の中で言葉になるだけ。
「どうしたの?」
 武史が心配そうに私の顔を覗き込む。私は涙を流していた。止めようにも止まらない。
「ごめんなさい」
 そう呟くと、両手で顔を覆う。
「私、武史と結婚できない」
 精一杯の言葉だった。これ以上言葉に出来ない。武史は不安そうな顔でなんで?と聞いてくる。
「なんでそんなことを?」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 武史はそっと手を伸ばすと、私を抱きしめた。ごめんなさいを繰り返す私の頭を撫でる。
「どうしてか、言ってくれる? ゆっくりでいいから」
 と、やっぱり優しい声で武史は言った。
 私は武史の胸の中で嗚咽するだけ。涙が止まらなかった。自分が調子に乗っていただけのことを理解した。武史に嫉妬してほしかっただけなんだ。こうやって優しくされるんじゃなくて、怒ってくれるならどれだけ良かったか。武史はプロポーズを断った恋人を抱きしめている。泣きたいのは断られた武史のほうだろう。
「優しくしないで」
 嗚咽交じりにそう言う。すると、私を抱きしめる力を緩め、なんでそんな事いうのと小さい声で呟いた。武史の精一杯の愛情なんだ。
 私はもう甘えちゃだめなんだ、と思った。
 その時、私の携帯が鳴った。なんて滑稽なのだろうと思った。こんなシリアスな雰囲気を着信メロディが破った。3分キッチンのテーマソング。そういえば武史がこれくだらねぇなと入れた着信メロディだ。
 私の体がビクリと萎縮する。武史は私の肩とポンと叩いて、見ていいよ、と笑った。
「男でしょ」
 そう言いながら武史は笑っていた。
 私は小さく頷き、携帯を開く。武史の視線が怖い。武史の笑顔からは何も受け取れない。何を思っているのだろう。笑顔が、いつもと違う。
 メールのフォルダを開くと、大輔さんからだった。私はおずおずとメールを開く。
「助けてくれないか」
 という、短いメールだった。どうしよう、と思った。助けてくれないか? 他の友達とか能天気に笑うような人からこんなメールがきてもなんとも反応しないが、相手が大輔さん。この前会ったとき、三日前には疲れきった顔をしていた。そして呟いたのだ。「消えてしまえたら楽だろうか」と。それはもう切羽詰っている感じで、助けてあげないと死んでしまいそうな、そんな表情だった。不安がこみ上がる。
 武史をちらりと見ると、武史は微笑んで、俺と別れたいんでしょ? と聞いてきた。
 別れたい? そんなこと…。大輔さんに抱かれながら、いつも武史を思い浮かべていた。武史を裏切るということに必死になっていた。裏切りの果てが別れるということではなかった。そうだ、そうだ。私は単に武史にやきもちを妬いて欲しかっただけなんだ。武史はいつも笑っているから、私が何言ってもニコニコしているから、それを打ち破って欲しかった。他の人と同じ扱いは嫌だ、特別な扱いをして欲しかったのだ。
「別れたいだなんて」
「舞果が、別れてもいいよ。俺は泣いてすがったりしないから」
「武史は」
 そうやって言うと、また涙が出てきた。もう言ってしまえ、じゃないと武史は本当にいなくなってしまう。
「武史はやきもち妬いてくれないんだね。嫉妬しないの? 私は何回も武史じゃない人に抱かれてきたんだよ? それでも嫉妬はしてくれないの? 別れたいんじゃない。ただ嫉妬してほしかっただけなのに」
 一気に言うと、息が続かず、最後のほうは涙を共に出たので、声が掠れていた。
「何言ってるんだよ」
 武史は見たこともないような怒った顔をして、大きな声を出した。
「俺がやきもち妬いてない? そうしたらこの感情はどうなるんだよ。はらわた煮えくり返る感情はなんなんだよ。俺だって嫉妬してるよ。バイトで男の客に笑顔を振りまくことにも嫉妬しているんだ、舞果しか見えないんだよ、本当はその男を殺してやりたいくらいに怒ってるんだよ」
 武史も涙目になっていた。
 そう武史が言い終わると同時にまた携帯が鳴った。武史は私に背を向けると、肩を震わした。
「メール見ろよ」
 液晶画面に大輔さんの名前が表示されていた。私はやっぱり躊躇しながらメールのフォルダを開く。
「死にます」
 私は背筋が寒くなった。あ…あ…と声が出る。本気だ、この人は本気だ。このままだと死んでしまう。私は急いでメールを返信しようと思った。けど指がちゃんと動かない。
「どうしようどうしよう」
 私が呟いていると、武史が振り返り、どうしたのと口を開く。
「死んじゃうよ、どうしよう死んじゃうよ!」
 携帯が手から零れ落ち、顔を手で覆ってどうしようと呟いた。
 武史は私の携帯を手に持つと画面を食い込むように見る。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。死にやしないよ、まず落ち着いて」
「落ち着けない! 大輔さんは冗談でこんなこと言う人じゃない! 本気なんだよ、この前も呟いてたもん」
「んだよ、んで、なんで舞果なんだよ!」
 武史が大声で叫び、携帯を床に投げつける。こんな荒れた武史は初めて見た。私は少し怖いと感じていた。こんなふうになった武史を見たいと思っていたのは私だ。やっと見れたというのに、嬉しさのカケラもない。大輔さんが死んでしまうかもしれない。そう思うと違う恐怖も襲ってくる。いろんな感情が湧いてきておかしくなってしまいそう。
 私はジャケットを持つと、「行かなくちゃ」と呟いた。行かなくちゃ、大輔さんが死んでしまう。ここは千葉の舞浜、大輔さんが住んでいる家の最寄り駅までは一時間と少しってところ。一度大輔さんの家に行ったことがあるからいける。行かなくちゃ、行かなくちゃ。
「行くなよ」
 武史はそう言ってジャケットを羽織ろうとした私を後ろから抱きしめる。
「今はダメ、今は大輔さんが…。大輔さんが死んじゃう」
「俺が行くから」
 武史の手を解くと、武史を見て微笑む。
「武史は大輔さんの家知らないでしょ? 大丈夫、私だけで行けるから」
「そんなんじゃ舞果が壊れてしまう。今の舞果は壊れてしまう、一緒に行こう、大丈夫、大丈夫だから、そんな無理して笑わないで」
 ダウンジャケットを手に持って、武史は私の手を繋ぐ。
「車で行こう。そっちのほうが早くつく。駅はどこ?」
「下北沢…」
「よし、行こう」
 部屋を二人で出ると、急いで車を走らせた。
 武史が車を運転している間に「今から会いに行きます」と大輔さんにメールを打った。


[*前へ][次へ#]

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!