迦陵頻伽―karyoubinga―
F
新聞の日付は今からもう十年以上も前。
カヤの笑顔も、内気で大人しそうな青年の顔も、すっかり色褪せ擦り切れてしまっている。
「彼女の時間は、あの時に止まってしまったんだね。彼女にとって、彼との思い出だけがすべてなんだろう」
ため息とともにマスターが吐き出す。
普段はお調子者のDも、いたたまれない表情を浮かべていた。
歌姫はもう一度その記事を眺めてから、丁寧に新聞を折り畳んだ。
「彼女、何も知らないのね。彼が死んだことも、自分が疾うに死んでしまっていることも」
そう言った歌姫に、Dはグラスを傾けながら皮肉そうに口の端を上げる。
「ここに集まる奴らはみんな同じさ。誰も彼もが大切なことを忘れてしまっている。夜の闇の中に自分自身を置き忘れてきたような連中の溜まり場だよ、ここは」
表情とは裏腹に、真剣な声でDは言う。どこか遠い眼差しで。
そのDの言葉に、
「そうね。確かにそうかも知れない」
歌姫はそっと息を洩らす。
「それに、もしかしたら、彼女にとって今が一番幸せなのかも知れないわね。悲しい事も辛い事も、都合の悪い事は全部忘れて、ただ愛する人を信じていればいいんですもの」
そんなことを言いながら、新聞の表面を指先でそっと撫でる。
「本当。幸せな女(ひと)だわ」
そう言ってにっこりと笑う歌姫を見て、
「やっぱり手厳しいなぁ」
マスターとDは思わず苦笑いを浮かべた。
そして夜は更けていく。
さらに深く。もっと深く。
その厚い帳で優しく世界を包み込む。
繰り返しやって来る日の訪れを、ほんの少しの間だけ忘れていられるように。
今日もまた、夜はすべてを隠し、迷える人々を深く優しく包み込む。