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迦陵頻伽―karyoubinga―
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【迦陵頻伽(かりょうびんが)】……サンスクリット語のkalavinka の音訳。仏教において、極楽浄土に住む上半身が人間の女性で下半身が鳥だという想像上の生き物。その声はいくら聞いても飽きることはなく、その姿を見たものに福をもたらすともいう。妙音鳥、好声鳥などと意訳される。




迦陵頻伽
―karyoubinga―

第一夜●深海魚




 夜更けの街。ひとりの男が路地裏を歩いていた。
 だいぶ酔いが回っているのだろうか。足取りはふらふらとおぼつかなく、力なく弛緩した表情でぼんやり視線をさまよわせている。
 身に纏った高級そうなスーツと、そのだらしない雰囲気が何ともそぐわない。
 虚ろな瞳を上げると、男の濁った目にその文字が妙に鮮やかに飛び込んできた。

 『伽陵頻伽』

 黒塗りの分厚い扉に小さな金文字でそう書かれている。
 「カリョービンガ、か。こりゃいい……」
 男は皮肉そうに笑い、だらりとした腕でその店の扉を開けた。

 音もなく開いたドアの透き間から、まず飛び込んできたのは少しばかり音の外れたピアノの音色だった。
 気だるげな音に吸い寄せられるように視線を向けると、店の片隅に小さなステージがあり、そこに一台の黒いピアノが置いてあった。その隣には若く美しい女が佇み、ピアノの音色に合わせて古い歌を口ずさんでいる。ピアノの弾き手の姿はない。
 「自動演奏か。珍しいな」
 男はそう言いながら、カウンター席へ腰掛けた。
 「いらっしゃい。何にします」
 店のマスターらしき男が、にこりともせずにカウンターの向こうから声をかけてくる。こんな商売をしている癖にずいぶん無愛想な男だ。
 しかし男は気にせず、気に入りのウィスキーの銘柄を告げる。
 男のような性分の人間には、愛想が良い店だとかえって煩わしく感じてしまう。その点、この店のどこか客を突き放したような雰囲気は、男にとって心地好いものだった。

 「いい声だな」
 しばらく女の歌声に耳を傾けていた男は感心したように呟いた。
 「彼女、名前は?」
 男が問うと、
 「さあ。この店では、ただ『歌姫』と呼ばれていますが」
 相変わらず愛想に欠けた声でマスターが答えた。
 やはり男は気にかけない。

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