その他の短編小説
C
女は顔を上げ、きゅっと唇を噛み締めた。
「ここからは、私一人で行かなければならないのね」
「そうです」
だってあの海は、彼女の『未来』そのものなのだから。
女は少しだけ不安そうに、でもしっかりと胸を張って歩き出した。
だが、二、三歩進んだところでふと振り返ると、花のような笑顔を私に向けてきた。
「ねえ、あなたの名前は?」
そう問われて、
「――」
私は相変わらず無表情のまま自分の名前を告げる。
女はにこにこと笑いながら、
「またいつか逢いましょうね、――」
嬉しそうに私の名前を呼びながら軽やかに手を振った。
遠ざかる女の背中をほんの少しの間だけ見送ってから、私はひとり船に戻った。
船を漕ぎ出すと白い砂浜も青い海もあっと言う間に遠ざかっていく。女の姿はもう影も形もない。
私はのんびり櫂を操りながら、きらきら光る水面を見つめる。
時の河は常に一定の方向へしか流れていかない。
過去から未来へ。
しかしその先がどこへ続いているのか、またどこまで続いているのか、それは私にも、誰にも分からない。
「マリエ……」
遥か彼方にあるだろう海の方角を見つめて、私はそっと女の名前を口にする。
きっと今頃は女自身がその名前を忘れているだろうけれど。
「また逢いましょう、マリエ。次に逢う時は、貴女と私のちょうど百回目の再会です」
でも彼女には分からない。私のことも、この河のことも。
きっと彼女は覚えていない。
それで良い。
私たちはまた何度でも何度でも出会う。
名前を変えて、姿を変えて。これからも彼女は私の前に現われるだろう。
そして、今までと同じように、彼女は笑うのだろう。
『ありがとう』と。
『また逢いましょう』と。
何もかも忘れたまっさらな心で。きっとまた彼女は笑うのだろう。
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