その他の短編小説
E
「ああ、勿論本心だとも。お前が生きていてくれるなら、それだけで十分だ」
男は女の手を握り締めながら力強く頷いた。
すると女はやせ細った両手を男の首にまわし、息も絶え絶えに男に言った。
「私を……山へ帰して」
男は山を登っていた。
その背に女を背負い、ただひたすらに歩を進めていた。
時おり背中にいる女の呼吸を確認するように振り返る。そして自分を見つめる女の目と目が合うと、安心したようにまた山を登り始める。
そうしてどれくらい歩いただろうか。
いつのまにか辺りは深い霧に包まれていた。
男が足を止めると、女がか細い声で男に言った。
「このまままっすぐ進んで」
「でも、今動いたら危ないよ」
「大丈夫。いいからこのまままっすぐ行ってちょうだい」
女の訴えに、男は仕方なく歩き出した。
するといくらも行かないうちに少しずつ霧が薄くなっていき、気がついたときには、白い霧は男のふくらはぎほどの高さに漂うばかりになっていた。
「ずいぶん広い所だなあ。山の上にこんな所があったなんて、ちっとも知らなかったよ」
男は感心したように周りを見回した。
足元の霧に隠されて見えないが、たぶんここは草原か何かなのだろう。視界が拓けて、ずっと離れたところに山々の尾根が見える。
男がもの珍しそうにその景色を眺めていると、女が身じろぎながら男に言った。
「さあ、もうここでいいわ。私をここに置いて、あなたは山を下りてください」
突然の女の言葉に、
「何だって?そんなこと出来るわけないだろう」
男は驚いて声を上げた。
しかし女は首を振ると、冷たく男に言い放った。
「ここから先は、あなたの行ける場所ではないの。いいから、あなたは山を下りてください」
「馬鹿を言うな。君を置いて一人で帰れるわけないだろう。さあ、どこへ行けばいい?ここから、どうすればいいんだ?」
「いいえ。あなたは山を下りて、そして私のことなど忘れてしまって」
「何だって?」
女の言葉に、男は本気で怒った。
[前へ][次へ]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!