その他の短編小説
B
登山家の一人に男は近寄って行った。
「山の上まで行ったんだろう?どんなだった?」
好奇心を丸出しに男は訊いた。
すると登山家はにやっと笑って答えた。
「まさに天上の風景さ。こんなに近くにいながらあの景色を見たことがないなんて、あんたたちは可哀そうだなあ」
そう言って、登山家はポケットを探り、男に一輪のしおれた花を差し出した。
男は息を呑んだ。
――なんて美しい花!
しおれてもなお鮮やかな濃い青色は、一瞬にして男の心を捕らえた。
「すごいだろう?あの山の上には、こんな花がそれこそ絨緞のように群がって咲いているんだ。これはしおれてしまっているが、実際に咲いているところはこんなもんじゃない」
男の心を察したように、登山家は熱く語った。
その日から、男の脳裏に青い花が焼き付いて離れなくなった。
一度でいいから、生きたあの花をこの目で見てみたい。
そんな思いが男の中に湧き上がり、それは日に日に大きくなっていった。
男はある日とうとう山に足を踏み入れた。
朝起きて、家の窓からあの山を見上げたとき、
(今日だ。今日、あの山に登ろう)
突然そう思った。
そして、山に登った。
そんな男の甘さを、そんな男の浅はかさを、山の神は笑っているのだろうか。
霧は一向に晴れる気配がなく、気温はどんどん下がっていく。寒さと疲労に男の気力も体力も萎えて行く。
今さらながら、自分の軽率な行動が悔やまれた。
ただいたずらに時間だけが流れ、とうとう夜になり、地面に蹲る男をうとうととした眠気が襲った。
(せめて一目だけでいい、あの花を……)
薄れていく意識の中、男は強くそう念じた。
唐突に男は目を覚ました。
暖かい空気が男の顔を優しく撫でる。美味しそうな匂いが、男の鼻腔と空腹感を刺激した。
(あっ――)
男は慌てて起き上がり、ぶるっと体を震わせた。
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