万華鏡 F 彼は犬塚老人に礼を述べると、ゆっくりと家路を辿った。 途中でぽつりぽつりと雨が降り出し、たちまち本降りになった。 ざあざあと降る雨の中、彼はふいに足を止めた。 「……」 あの日、岩谷はどうして彼の前に姿を現したのだろう。 あの日あの時、岩谷は間違いなく巴里の病院にいたはずだったのに。 日本になど一度も戻ってきていなかったのに。 灰色の空を見上げながら、彼は何度も何度も考えた。 雨は止まない。あの日のように激しく強く降り続ける。 激しい雨が容赦なく彼の頬を打つ。それでも構わず、彼はじっとそこに佇んで空を見上げていた。 雨粒が彼の両目に当たり、収まりきれずに流れ落ちていく。 「岩谷……」 彼はぎゅっと目を閉じた。 その閉じられた目蓋の端から、雨と一緒に熱いものが溢れ出す。 いったい岩谷は自分に何を伝えたかったのだろう。 遠い海の向こうから、どうしてわざわざ会いに来てくれたのだろう。 「ありがとう」と最後に笑ったその意味は、いったい何だったのだろう。 ――俺、絵を描くよ。これからもずっとずっと描き続けるよ。 ――きっと生まれ変わっても、俺は絵を描くと思う。 そう言って笑った親友の顔。 脳裏に浮かんだその笑顔に向かって、彼は懸命に笑いかける。 「ああ、そうだな、岩谷。お前なら、きっと―――」 《終わり》 [前へ][次へ] [戻る] |