万華鏡
C
学校から帰り、居間でテレビを見ていた私に、夕飯の支度をしながら母が思い出したように話しかけてきたのだ。
「斉藤さんのお宅、今度引っ越すんですって」
そうだ、『斉藤』さん。それがみっちゃんの名字だった。
「ふぅん」
無難に相槌を打ちながら、私は先日のやり取りを思い返していた。
みっちゃんの話というのはそのことだったんだろうか。
「引越しって、転勤?」
何気なく尋ねた私に、母は気まずそうなためらいを見せた。
「ううん。そうじゃないみたい」
「じゃ、何?」
尚も私が尋ねると、母はいつにない神妙な顔をしてこちらを振り返った。
「お引越しするのは、みちるちゃんとお母さんだけなんだって」
言われた言葉に一瞬だけ考える。
しかしすぐにその意味を理解した。我ながら変なところだけ察しのいい子供だったのだ。
「……そっか。みっちゃん、『斉藤さん』じゃなくなるんだ」
そう洩らすと、母は小さく頷いただけだった。
ここまで聞いた人は、きっと私が自分からみっちゃんを訪ねて行ったと思うだろう。
でも違う。
現実には、私はみっちゃんを訪ねたりしなかった。それに、みっちゃんのほうでも、私に別れを告げに来たりはしなかった。
みっちゃんとみっちゃんのお母さんは近所の人も知らないうちにいつの間にか居なくなり、残されたお父さんもしばらくすると何処かへ引っ越してしまった。やがて一家の消息はすっかり途絶えた。
みっちゃんは鮮やかなくらいあっさりと私の日常から消えて行った。
だから、私とみっちゃんの思い出話もこれでお終い。
あ、そうそう。ひとつ言い忘れた事がある。
実は、みっちゃんが引っ越す少し前、私の家のポストに、たんぽぽの花が一輪入っていたことがあったのだ。
最初は近所の子供が悪戯したのだろうと思っていたけど、よく考えたら、あれはみっちゃんが私に置いていったのかも知れない。
みっちゃんは言った。たんぽぽの花言葉には悲しい『別離』よりも、楽しい『旅立ち』のほうが相応しい、と。
あの時のみっちゃんは、ただ悲しい気持ちだけを抱いて旅立ったわけではなかった。たとえそれが小さなものでも、みっちゃんの胸には新しい『旅立ち』への希望があったに違いない。
だからきっと今もみっちゃんは何処かで元気に暮らしているだろう。
たんぽぽのように明るく笑いながら。
少なくとも私はそう信じている。
《おわり》
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