万華鏡
G
「大変だ。梨を届けなくちゃ!」
言いながら慌てて立ち上がる。
間もなく完全に陽が暮れるだろう。こんな所で悠長に烏を見送っている場合ではない。
「お家の人も心配しているよ。さあ、君も一緒に家に帰ろう」
そう言いながら、男の子の手を掴んだ時だった。
男の子がぎゅっと彼の手を握り返してきた。そして、はきはきとした声で彼に言った。
「僕、ずっと迷ってたんだ。知らないものを見るのが怖かった、本当はすごく不安だった」
「え?」
彼が不思議そうに振り返ると、男の子は満面の笑顔を彼に向けた。
「でも、やっと決心がついたよ。ありがとう。僕、これから色々なものを見るね。そしたらまたおじさんと話せるといいな。僕ね、きっとまたおじさんの前に現れるよ」
言葉の最後のほうは、果たして本当に男の子が言ったのかどうか分からない。
彼が見ている前で、男の子の体は夕暮れの中に溶け、あっと言う間に消えてしまったのだ。
男の子が手にした提灯さえ跡形も無く消えてしまっていた。
「今のはいったい……」
夢だったのだろうか。
たった今まで話をしていたことも、男の子の存在も。何もかも。
そんな風に思いながら、彼はついさっきまで男の子の手を握っていた自分の手を見つめた。そこには、まだはっきりと男の子の温もりが残っていた。
「夢じゃない。ということは、たちの悪い狸にでも化かされたのかな?」
塀の前に立ち尽くし、彼はしきりに首を捻った。
そんな彼の頭上を、烏たちが悠々と飛んで行く。
どれくらいそこに突っ立っていたのだろうか。
「こんなところで何をしているんですか、先生?」
玄関に明かりを灯すため出てきた雪枝が、家の前に佇む彼を見つけて、呆れたように声をかけてきた。
「あ、雪枝さん。こんばんは」
そう言いながら暢気に頭を下げる彼を見て、雪枝はたまらず吹き出す。
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