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万華鏡
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■空蝉■



 頬を撫でる風に誘われるように、彼はふと窓の外を見た。
 空が高い。空気は透き通り、白く細長い雲がはるか山の向こうまで伸びている。
 しぶとく居座っていた残暑もいつの間にか鳴りを潜め、聞こえてくる虫の声もすっかり種類が変わった。
 過ぎてゆく夏を惜しむ気持ちがないわけではないが、夏が苦手な彼にとって、暑さも和らぎ涼しい風を感じるようになったこの頃はそれだけで嬉しく思える。
 「気持ちいい……」
 景色と空気の清々しさに、彼は思い切り深呼吸した。
 またしても部屋の中をすり抜けていった風に、今度は香ばしい匂いが混じっていた。きっとどこかで秋刀魚でも焼いているのだろう。
 「もうすっかり秋なんだなぁ」
 しみじみと呟いてから、少し勢いをつけて重い腰を上げる。
 「さて、と」
 ぐるりと部屋の中を見回し、畳の上に散らばった幾枚かの紙を拾う。集めた束を軽く整えて机の端に置くと、彼はふらりと書斎を出て行った。

 向かった先は台所である。
 いつもなら今時分は夕飯の支度で賑やかなこの場所も、ここ数日あまりはしんと静まり返っている。
 買い物に出るのが面倒だからと、家にあるもので毎食簡単に済ませてきたのだが、いい加減この家の食料も底をついてきたらしい。ごそごそと棚などを漁ってみたものの、どうにも夕飯のおかずになりそうな物は見つからなかった。
 味噌と醤油、それに鰹節では、作れるものなどせいぜい猫まんまぐらいだろうか。
 もっとも、そんなことを顔見知りの白妙(しろたえ)が聞いたら、間違いなく異議を唱えるに違いない。彼女に言わせれば、猫というのは相当な美食家であるらしいから。
 それにしても見事に何もない。野菜の切れ端くらい残っていないかと期待していたのだが、どうやら考えが甘かったようだ。
 「ああ、早く雪枝(ゆきえ)さんが戻ってきてくれないかな」
 ため息のように吐き出した言葉は、人気のない台所の暗がりに呑み込まれた。

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