万華鏡
B
「樹(たつき)……」
彼女は絵を見つめながら、懐かしい名前を呼ぶ。
あの日――。
少女を砂浜に残し、青年を乗せた車は、急カーブを曲り切れずに海へと飛び込んだ。
かなりのスピードが出ていたようで、道路にブレーキ痕は無かった。そう警察から聞いた。
果たしてあれは事故だったのか、それとも………。
「あなたは優しいから、最後まで私のことを気遣ってくれたのね」
彼女は絵に向かって話しかける。
「真実を告げないまま。ただこの絵だけを残して」
彼のいなくなった部屋の真ん中にぽつんと置いてあった少女の絵。
それは、彼の少女への最後の愛情だったのか。心変わりした恋人への無言の抗議だったのか。
ひとり年を重ねた彼女に、その答えを知る術(すべ)はない。
「樹……」
二度と還らない人の名を、彼女はそっと呟いた。
《終わり》
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