万華鏡
E
「困ったなぁ。姐さんみたいな美人に睨まれると弱いんですよね」
男はそう言って、手に持った提灯を彼に押し付けた。
「じゃあ、旦那。アタシはそろそろ退散しますよ。夜道は暗いですからね。これを持っていっておくんなさい」
「え?ありがたい申し出だけど、コンコン、それじゃあなたが困るんじゃないですか?」
「なあに、アタシは平気ですよ。心配してくれてありがとうございます」
男はにっこりと笑った。それから、
「咳にはカリンの実が効くそうですよ、旦那。じゃあ、また」
言うが早いか、男は薄野原の中に身を滑り込ませた。
「あ、待っ――」
彼が慌てて男の後を追おうとすると、
「いいんですよ、先生」
白妙が彼を引き止める。
「いや、しかし……」
それでも彼が躊躇していると、白妙がついと男の消えて行った方向を指差した。
促されるまま、彼は目を凝らして薄野原の暗闇を見つめる。
「あっ!」
ふさふさした金色の尻尾が、薄の穂の間から見え隠れしていた。
「狐?」
思わず彼が声を上げると、狐はくるりと彼のほうをふり向いて、
「コンコン、ケンケーン」
一際甲高い鳴き声を上げた。
呆然とする彼に、隣で白妙が笑い声を立てる。
「どうぞお大事に、って言ってますよ。また妙なものに好かれましたねぇ」
「え?あの、あれ……?」
わけが分からず、おどおどしながら白妙を振り返る。白妙は艶やかにほほ笑みながら、
「あれは『清吉(せいきち)』といって、ここらの化け狐の親玉みたいなもんですよ。私も猫又のはしくれですからね。清さんとは昔からの顔馴染みなんですよ、先生」
そう彼に教えてやった。
「……」
彼はぼんやりと清吉の後ろ姿を見送る。
金色の肢体が月明かりに照らされて、銀色の薄野原の中で妖しく煌いていた。
その幻想的な眺めに、彼は言葉を忘れたようにただ無言で見惚れる。
そして、
(この次ここを通る時は、土産に油揚げでも持って来ようか?)
(ああ、でも狐って本当に油揚げが好物なのかなぁ?)
のんびりとそんなことを考える彼の手の中で、狐がくれた提灯がゆらゆらと揺らめいていた。
翌朝、彼が確認すると、提灯は小さな赤い烏瓜(からすうり)に姿を変えていた。
「これも狐に化かされたうちに入るのかな?」
そんな独り言を呟きながら、彼はその烏瓜を大事そうに文机の奥へ仕舞った。
《終わり》
[前へ][次へ]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!