万華鏡
B
お目当ての本を探し出し、せっかく街まで出たついでにと、ほかの本屋を覗いたり、新しい原稿用紙を仕入れたり、東京にいる知り合いに手紙を出したり。そういう諸々の用事を片付けた頃には、すでに陽が落ちかけていた。
「ははあ。これは、家に着くまでに暗くなってしまうな。雪枝さんに叱られてしまうかな」
呟いた彼の脇を秋風が集団ですり抜けていく。頬に感じた温度は、昼間とは比べ物にならないほど冷たい。
雪枝の気遣いは間違っていなかったと一人納得しながら、彼は途中で暑くなったためカバンの中にしまっておいた襟巻きを取り出し、くるりと首に巻いて、家路を急ぐことにした。
だんだんと暗くなる野道を歩いていると、朝からの咳がますます止まらなくなってくる。
「コンコン、ケンケン」
襟巻きをしっかり手で押さえながら、例の『狐が原』を通りかかった時である。
「うわぁ――!」
彼は思わず足を止めた。
暮れていく空と昇り始めの月を背景に、銀色の輝きを見せる薄の穂波。
昼の光の中で見る景色とはまったく違うその光景に、彼の足はぴたりと縫い止められてしまったようにその場から動かない。いや、動けない。
視界の端に墨色に染まる空が映り、「早く帰らなくては」と思うものの、どうしてもその景色から目を逸らすことが出来ない。
彼はただ呆然と立ち尽くしていた。
それからしばらく経った頃。
彼と虫たちしかいない薄野原に、ひたひたとしめやかな足音が聞こえてきた。
(こんな時分に誰だろう?)
そう思いながら顔を向けると、暗闇の中にぼんやりと揺れる提灯のあかりが見えた。
「こんばんは。…コンコン」
無難な挨拶の後に、またしても妙な咳が出てしまう。
相手は「おや?」というように顔を上げる。提灯に照らされたほっそりと白い顔は、切れ長の目とすうっと通った鼻筋のなかなか品の良い男前である。
「こんばんは。いまお帰りで?」
男は親しげに彼の隣に並ぶ。ずいぶん愛想の良い男のようだ。
「ええ、まあ」
「昨晩は久しぶりの祝言でしたからね。旦那もついつい酒を勧められて、今日も一日飲み明かし、ってところですかい?」
「いや」
男はどうも何か勘違いをしているらしい。
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