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万華鏡
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■ひつじぐさ■




 小さな沼の脇を通りかかった時、ふと耳慣れない音が聞こえた。
 ぽん、とまるで何かが小さくはじけるような。でももっと柔らかい音。
 何の音だろうと彼が首を傾げていると、ふいに下のほうから声が上がった。
 「未草の花が開いたんだよ」
 「ヒツジグサ?」
 聞き返すと、声はケッケッと笑いながらも親切に教えてくれる。
 「ほら。沼の中に白い花が見えるだろう。あれさ」
 「ああ」
 声が示したほうを見ると、五、六輪ほどの睡蓮の花が鮮やかに咲いていた。
 「未(ひつじ)の刻に開花するからってんで、そう呼ばれるのさ」
 そう言われて、彼は手元の時計を見てみる。
 時計の針は十時十分をさしていた。未の刻(午後二時)にはまだだいぶ遠い。
 「とんだ嘘っぱちだな」
 思わずそう言った彼に、声の主はにたりと笑って見せた。
 「そりゃそうさ。あの花は午前中に開いて夕方にはしぼんじまう」
 「それなのに『未草』だなんて。ずいぶんいい加減な話だ」
 「まあ、人間なんてそんなもんさ」
 そう言ってまたケッケッと笑う。

 「ところで君は誰なんだい?」
 沼にひっそりと浮かぶ白い花を見つめながら、彼は何気なく尋ねた。
 声の主は、おもしろそうに手をひらひらさせながら、水の中から姿を現した。明るい緑色の全身は思ったよりも小さい。
 「人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るって教わらなかったかい?……もっとも俺は人じゃあないが」
 小さな体に似合わず、蛙は低い声でそう言う。
 それから、いかにも難儀そうに「よっこらせ」と言いながら、沼の縁に生えている菖蒲の葉に腰かけて、おもむろに煙管(キセル)など吸い出した。
 (ずいぶんと粋な旦那だ)
 そんなことを思いつつ、その隣にのんびりとしゃがみ込む。
 「僕は、この先に住んでいる――」
 そう彼が言いかけた時だった。


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あきゅろす。
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