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万華鏡
D
 「なあ、相模…」
 雨音を子守唄がわりにうとうとし始めた彼に、岩谷がふいに話しかける。
 「ん?」
 少しかび臭い夜具に顔を埋めたまま、彼はどこか夢うつつの状態で岩谷の言葉に耳を傾けた。
 「今日お前に会えて良かったよ」
 「何だ、急に」
 欠伸をかみ殺しながら相槌を打つと、岩谷は別段気にした様子もなくさらに話を続ける。彼も睡魔と戦いながら、何とか岩谷の話を聞こうと耳を澄ます。
 「お前と会って、話して、俺が忘れていたことを思い出した」
 「お前が忘れていたこと?」
 「ああ。俺さ、絵を描くのがものすごく好きなんだよな。描かずにはいられない、だから絵を描くんだ。それって単純だけど大事なことだよな」
 「ああ、そうだな」
 頷きながら、落ちてくる目蓋をどうにも止めることが出来ない。
 「それを思い出させてくれてありがとう」
 「うん?」
 「相模、俺、絵を描くよ。これからもずっとずっと描き続けるよ」
 「……」
 岩谷の声がだんだん遠くなる。
 舞台の幕が下りるように、彼の視界もゆっくりと暗闇に閉ざされていった。


 翌朝。彼が目を覚ますと岩谷の姿はなかった。
 少しばかり二日酔いの頭をぼりぼりと掻きながら、彼は大きな声で親友の名前を呼ぶ。
 「岩谷。おい、岩谷」
 どこからも返事は聞こえてこない。
 敷きっぱなしの布団はきちんと整えられていて、手で触れるとすっかり冷たくなっていた。岩谷が床を出てからずいぶん時間が経っているらしい。
 ちゃぶ台の上に置かれた二つの盃と空になった数本の一升瓶もそのままに、岩谷の姿だけがどこにも見当たらない。
 玄関に行ってみると、岩谷の持ち物である洒落た革靴がなくなっていた。
 「岩谷?」
 試しにもう一度呼んでみる。
 しかし、やはり岩谷の姿はどこにもなかった。
 「何だあいつ、ふらっと居なくなって……」
 来た時と同様、岩谷は忽然と姿を消したのだった。


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あきゅろす。
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