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万華鏡
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■春の雨■



 ふと視線を窓の外に向けると、いつの間にか雨が止んでいた。
 雲の切れ間から差し込む陽光に目を奪われ、彼は忙しなく動かしていた手を止めた。そのまま大きな伸びを一つする。
 するとまるでそれを見計らっていたかのように、カタンと小さな音を立てて襖が開いた。それと同時に何とも香ばしい匂いが漂ってくる。
 「ほうじ茶ですか?」
 声をかければ、「はい」と短く答えてかすかに笑う。
 そのまま笑いをガラス向こうの空へ向ける横顔に、
 「雨、止みましたね」
 のんびりとした口調で言うと、
 「助かりました。これで夕飯の買い物に行けます」
 そう答えながら、少し咎めるような眼差しを送ってくる。
 遠まわしに何が言いたいのかを察して、彼はばつが悪そうに苦笑する。
 「仕方ないじゃありませんか。雨に濡れて可哀想だったんですから」
 「だからって……」
 ――何も家中の傘を差し入れてあげなくても。
 そう言いかけた言葉を、彼女はそっと呑み込んだ。
 (どうせ先生には言っても無駄なんだわ)
 この家に来るようになってから彼女が学んだこと。それは、自分の雇い主はかなりの変わり者らしいということ。
 (そう言えば、昔近所に住んでいた画家先生も変わった人だった)
 そんなことを思い出す。

 彼女が小学生の頃、三軒隣の家に年老いた画家が住んでいた。
 噂ではかなり名の知れた日本画家ということだったが、古い民家を買い取り、そこに一人きりで暮らしていた。
 わざわざ都会から移り住んできたそうだが、さぞかし不便だったことだろう。近所の者たちともあまり馴染まず、時には寝食さえ忘れてひたすら絵を描いていた。
 そんな生活を十年近く送った後、来た時と同じようにふらっと姿を消したのだった。
 今自分がお手伝いとして通っているこの家の主はまだ年若く、絵ではなく文章を書いているいわゆる作家というものだが、およそ芸術を生業(なりわい)とする者は皆一様にこんな感じなのだろうか。

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あきゅろす。
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