旅人シリーズ
〃 A
「僕のこと、覚えていてくださったんですね」
気まずさを紛らわすように、僕はなるべく明るい声でそう館長に話しかける。すると柿崎館長は一寸だけ足を止めて僕を振り返った。
館長の穏やかな眼差しがまっすぐに僕の目を見る。
「そうか、君は――」
言いかけた言葉を、柿崎館長は呑み込んでしまう。
「何ですか?」
尋ねると、
「いや。部屋に着いてから話そう」
首を振りながらそう言い、また歩き出してしまう。
すっかり明かりを落とした真っ暗な館内で、館長が手に持ったアルコールランプだけがぼんやりと揺れている。
今時アルコールランプだなんて驚きだが、その灯が照らし出す幻想的な雰囲気は、なるほどこの博物館にふさわしいように思える。
まるで異空間を歩いているような妙な気分になりながら、僕は素直に柿崎館長に従った。
やがて柿崎館長が僕を案内したのは、館内の最奥にある部屋だった。
建物と同じように古びた重厚な木の扉を開けると、こちらもまたずいぶんと古めかしいヨーロッパ風の調度品が置かれている。どうやら館長の私室らしい。
足音をすっかり吸い取ってしまうほど毛足の長い絨緞を踏みながら、僕はすすめられた椅子に腰を下ろした。
「さて」
薔薇の花の模様が描かれた洒落たティーカップを差し出しながら、柿崎館長が僕の顔を見つめてくる。その瞳に満ちた不思議な輝きに、僕は心が吸い取られていくような感覚を覚えた。
「何から話そうか?」
穏やかに問われて、僕はすがるような視線を館長に注いだ。
「分からないんです。いったいここへ来てあなたに会って何を聞こうと思ったのか。……分からないまま、僕はここへ来てしまったんです」
僕が言うと、柿崎館長は困ったように苦笑した。
「何も思い出さないのに、君はここへ来たのかい?」
「はい」
頷きながら、僕はかすかな違和感を覚えた。
どうして柿崎館長は、僕に「何も分からないのに」ではなく「何も思い出さないのに」と言ったのだろう?
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