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旅人シリーズ
B
 けれどそれがいつだったのか、どこでだったのか、そして誰が弾いていたのか、それらがまったく思い出せない。
 でも確かに聞いた。間違いない……と思う。
 それともあれは夢の中の出来事ででもあったのだろうか。だからこんなにも記憶が曖昧なのだろうか。

 奇妙なことに、僕にはこういうあやふやな感覚が起こることがたまにあった。
 ふとしたきっかけで、よく覚えのない映像や音や匂いが脳裏をよぎり、思い出そうとして必死に記憶を手繰り寄せてみても、まるで頭の中に靄がかかったように思い出せない。
 ただ記憶の断片だけがちらちらと蘇るばかりで、それがいつどこで起こったことなのか分からない。それどころか、本当に現実にあったことなのかどうかさえ疑わしい。
 けれど、そんな時、僕の心は決まってざわめいた。
 そして僕に告げるのだ。「これは間違いなく現実の記憶なのだ」と。

 どうして思い出せないのだろう。
 こんなに心が苦しいのに。思い出したくてたまらないのに。
 それに、それほど大切な思い出ならば、どうして自分は忘れてしまったりしたんだろう。

 その度に何ともやるせない気持ちになった。
 そして、そんな気分を払うように、僕は旅に出るのだった。
 もしかしたら、僕の心のどこかに、旅をすることで失くした記憶を取り戻せるかも知れないという期待めいたものがあるのだろうか。僕が旅をするのは、その『何か』を探すためなのかも知れない。
 そんなこと、今まで思いも寄らなかったけれども。


 森のちょうど真ん中くらいに着いた時だった。
 ふいに目の前が明るくなって、その眩しさに僕は目を細めた。
 「あ……」
 鬱蒼と生い茂っていた木々が嘘のように、ぽっかりと広い空間が開けていた。地面を覆う柔らかな草の明るい緑色が、夜の闇の中でほのかに光を放っている。そのため、その場所だけがぼんやりと明るい。

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あきゅろす。
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