旅人シリーズ F 白いワンピースを染める赤い液体、無残にひしゃげた果実から漂う甘い香り。それらに目眩を起こしそうになる。 「――っ!」 僕は両手で口元を押さえると、慌ててその場から走り去った。 彼女はその場に立ち尽くし、ただぼんやりと逃げて行く僕の背中を見つめている。 いや。彼女の瞳は僕など見ていない。 彼女の目に映っているのは、僕でも山の景色でもなく、きっと遠い昔に彼女が失くしてしまった甘やかな夢。一度その味を知ってしまったら二度と抜け出せなくなる、深く甘美な夢の深淵。 彼女はその中に捕らわれて、きっともうこちらへ戻ってくることは出来ないのかも知れない。 僕は全速力で山を下りると、民宿の玄関に飛び込んだ。 「あれまぁ、どうしたね?そんなに慌てて」 おかみさんののんびりした声と夕食のお味噌汁の匂い。 それが、冷え切った僕の感覚をやっと現実へと引き戻してくれる。 「どうしたんだい?真っ青な顔をして」 「いえ、何でも――何でもありません」 「山で何か怖いもんでも見たのかい?」 「いいえ、何も」 からかうように言ったおかみさんに、僕はただ首を振るばかりだった。 そして何気なく腕時計を見ると、銀色の秒針がカチカチと確かな時を刻んでいた。それを見た途端、僕の全身から力が抜けた。 おかみさんはそんな僕の様子に苦笑すると、夕食前に温泉に入って温まってくるよう勧めてくれた。どうやら僕の体は小刻みに震えていたらしい。 僕はその忠告に素直に従った。 温泉に浸かりながら、僕は山であったことをぼんやりと考えていた。 やはりあの女性がおかみさんの言っていた人なのだろうか。それとも、まったく別の――。 そこまで考えて、僕は慌てて首を振った。 たとえ僕が山の中で見たものが何であったとしても、もうそのことは忘れてしまったほうが良いだろう。 [前へ][次へ] [戻る] |