旅人シリーズ C 念のため、宿の入り口の台の上に書き置きを残しておく。 『ちょっと山へ行ってきます。 夕食までには戻りますので、 心配しないでください。 成宮(なるみや)』 さあ、これで準備は整った。 山の中は、思いのほかひんやりしている。 宿のある場所も都会に比べたら十分冷涼だと思うが、山に入るとその感はひとしおだ。もう夏も近いというのに幾らか肌寒いくらいだった。 僕は用意してきた上着を着込んで、山道を黙々と歩いていた。 (山の中と言っても、ずいぶん広いからなぁ) うまい具合に目的の人物に会えるのだろうか。 そんなことを考えながら、足元に注意して歩を進めていく。 しばらく歩いてみたが、やはり僕の行動は無謀だったらしい。 女の人どころか、山菜一本見つけることも出来ずに、ただ時間だけが悪戯に過ぎていった。 「いったい今は何時なのだろう?」 僕は腕時計を見て、一瞬息を呑んだ。 「――止まってる?」 秒針も、当たり前だが分針も何も動いていない。 電池が切れてしまったのだろうか? いや、そんなことはない。 この時計は、つい三週間前に電池を交換したばかりだ。通常二年くらいは持つ電池が、いくら何でもそんなに早く消耗するはずがない。 「いったいどうなってるんだ?」 僕が途方に暮れて立ち尽くしていると、 「こんにちは」 いきなり背後から声をかけられた。 「――?!」 驚いて僕が振り向くと、そこには白いワンピースを着た美しい女性が立っていた。 柔らかな茶色い髪と、青白く透明な肌。それとは不釣り合いなくらい鮮やかな赤い唇で、にっこりと僕に笑いかけている。 ――何か変だ。 それが、彼女を見た瞬間に僕の頭に浮かんだ言葉だった。 奇妙な違和感を覚えながら、それでも僕はじっと彼女を見つめていた。 彼女と、彼女が両手いっぱいに抱えていた見慣れない果実を。 [前へ][次へ] [戻る] |