猫目堂
F
(あれ…?)
少女はふと違和感を覚えた。
仔犬を助けるために、青年は首まで海水に浸かったはずである。それなのに、彼が着ている黒いセーターも黒いジーンズも少しも濡れていない。
(いったいどうして?)
少女は不思議に思いながら顔を上げると、青年の顔をまじまじと見つめた。
おだやかな笑顔、優しい茶色い瞳。
以前にどこかで逢ったような………
「可愛い仔犬ですね」
少女の戸惑いをよそに、青年は優しく少女に笑いかける。
「あの――」
少女が何かを言おうと口を開きかけたとき、それを遮るように青年が少女に言った。
「俺はたくさんのものを君にもらった。そしてたくさんのものを君にあげた。どうかそれを無駄にしないで」
「え――?」
少女が驚いて青年を見上げると、青年は笑いながら仔犬の頭を軽く撫でた。
「たくさん可愛がってもらうんだよ」
そう言って、くるりと背を向けた。
そしてそのまま歩いて行ってしまう。
黙々と去って行く後ろ姿に、少女は慌てて声をかけた。
「待って――」
青年がピタリと足を止める。
しかし振り向こうとはしない。
青年の黒くて大きな背中に、少女はたまらなくなってこう言った。
「あの、あの…この子の名前、『ブランシュ』にします」
「ブランシュ?」
青年は少女に背を向けたまま尋ねた。
少女はきっぱりと頷くと、大きな声で言った。
「だって、この子ったら真っ白だし。それに女の子だから。――だから、『blanche(白い)』。ね、いい名前でしょう?」
尋ねた少女に、青年は少しだけ顔を向けた。そして、
「相変わらずセンスないなぁ」
そう言って呆れたようにほほ笑んだ。
それから青年はもう二度と少女を振り返らず、ゆっくりと砂浜を歩いて行った。
少女は黙って青年の背中を見送る。
仔犬を抱く腕にそっと力を込めながら。
やがて青年の姿が小さくなって、もうただの黒い点にしか見えなくなった頃。
その黒い点が、波に弾かれて煌く陽光に溶けていく瞬間。
少女は小さな小さな声で囁いた。
「さよなら、ブラック」
《おしまい》
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