猫目堂
D
「いってらっしゃい」
わざと明るい声で言いながら、父親と母親は心配そうに少女と仔犬を見送る。
そんな両親に、少女はぎこちなくほほ笑んで見せると、
「うん。行ってきます」
ほら、行くよ。
小さな声で仔犬に言うと、仔犬は嬉しさのあまりキャンキャン吠えながら、少女の周りをぐるぐるとまわった。
「ねえ……」
門を出て行こうとする少女に、母親が思い切って声をかけた。
「その子の名前、早くつけてあげなさいね」
その母親の言葉に、少女は黙って頷いただけだった。
少女と仔犬は、家の近所にある海岸を散歩していた。
春まだ浅い海にはほかに誰の姿もなく、少女はリードを外して仔犬を自由にしてやった。仔犬は喜んで駆けていく。
それから少女は砂浜に座り込み、じっと碧い海面を見ていた。
「ブラック……」
ぽつりと少女の口から漏れた言葉。
すると仔犬が少女のそばに走り寄って来て、嬉しそうにしっぽを振った。
「あんたの名前じゃないでしょ」
そんな仔犬の様子を苦笑して見つめながら、少女は思い切って仔犬の小さな頭に触れた。
「あったかい…」
少女はつぶやいて、仔犬の頭を撫で続けた。
仔犬は気持ち良さそうに目を閉じて、少女に甘えるようにしっぽを振っている。
少女の口元に知らず知らずに笑みが広がっていく。
その時―――
強い風が吹いて、少女の頭に乗っていた帽子を舞い上げた。
「あっ――」
少女は慌てて帽子を掴もうとしたが、帽子は風に乗ってゆるゆると飛んでいってしまう。
しばらく春風に弄ばれた後、少女の帽子はポトリと海面に落ちた。
「あーあ」
少女はため息をついて、帽子を拾おうと立ち上がった。すると傍にいた仔犬が、
「キャン」
そう一声鳴いて、海面に浮かぶ帽子めがけて一目散に駆け出していった。
「待って!」
少女は慌てて引き止めたが、その時にはもう仔犬は海の中に入っていってしまっていた。
「そんなものいいから戻っておいで、――」
仔犬の名前を呼ぼうとして、少女は愕然とした。
そうだ。仔犬にはまだ名前がないんだった。呼び戻すにしたって、名前がなくちゃ何にもならない。
少女がためらっていると、仔犬の小さな体が波間に消えた。
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