猫目堂
C
そんな彼に、彼女は淋しげに顔を伏せた。唇から大きなため息が一つこぼれる。
「何も言ってくれないのね」
そう言って、彼女は席を立った。
彼は彼女を引き止めようとした。けれど何と言って引き止めればいいのか分からなかった。
彼女の父親の言いたいことは分かる。たぶん彼が家を出るときに、彼の父が言ったのと同じことだろう。
「夢を見て食べていけるほど世の中は甘くない」
親としては当然の心配なのかもしれない。
それは彼にもわかっている。
だが―――
そして、今朝。
電話のベルが、彼の浅い眠りを破った。
すぐに彼女からだと思った。
慌ててベッドから出ると、急いで受話器をとった。
「はい」
けれど聞こえてきたのは彼女のものではなく、懐かしい母の声。
数年ぶりに耳にするその声は涙に震えていた。
「父さんが倒れたの」
「えっ?!」
「いまM市の病院にいるわ。お医者様の話では、もう長くはないだろうって」
「――!」
母の言葉に、彼は絶句した。
「お願いだから帰ってきて。父さんもあなたに会いたがってるわ」
嘘だ――。
その瞬間、彼はそう思った。
父さんが僕に会いたがるはずがない。あの時、僕に「出ていけ」といったのは父さんのほうじゃないか……。
そんな言葉が喉元まで出掛かったが、彼はそれを呑み込んだ。
もしいま会わなかったら、父親には二度と会えないかもしれない。
彼はそう思い、勤めている工房に事情を話してしばらく休みをもらうことにした。そしてM市行きのバスに乗って、父の元へと向かっていたのだった。
今さら父親に会って、いったい何を話そうというのか。
手元のサンドイッチをじっと見つめながら、彼は考え込んだ。
今の自分の状況を知ったら、父親は何と思うだろう。「それ見たことか」と嘲笑されるのではないだろうか。
「……」
家を飛び出したときの父親の顔と言葉を思い出して、彼はきゅっと唇を噛んだ。
(このまま引き返そうか)
そんなことを思ったときだった。
よく聞き慣れた音がして、彼は反射的に顔を上げた。
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