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猫目堂
A

 「すみませんが、もう一度言っていただけますか?」
 黒髪の青年は、戸惑うように視線を上げた。
 澄んだ琥珀色の瞳に映し出されるのは、この世のものならぬ美しい姿。その背中には、白い大きな二枚の翼まで生えている。
 そう、彼の目の前にいるのはまぎれもなく『天使』だった。
 「だからね、海斗(カイト)、君は選ばれたんだ。これからは天使として、私たちと一緒に天界で暮らすことが出来るんだよ」
 天使はそう言って、青年にほほ笑みかける。
 「でも、そのためには今までの記憶をなくさなくちゃならないんですよね?」
 「ああ、そうだね。前世の記憶を持ったままでは、天界で暮らすのにいろいろと支障があるだろうからね」
 「支障――ですか?」
 怪訝そうに目を細める海斗をなだめるように、天使の若草色の瞳が優しく揺れる。
 「海斗、天界というのは特別な場所でね。悲しみも苦しみも一切ない、本当にすばらしい場所なんだ。そこに、地上での負の記憶を持ち込むことは出来ないのだよ」
 「……」
 「心配しなくていい。これからはおだやかで優しい暮らしが待っている。何も不安に感じることなどないよ」
 心を込めて海斗を説得しようとする天使に、しかし海斗は申し訳なさそうに頭を下げた。
 「すみません。僕は、天界へは行けません」
 「どうして?」
 思いがけない海斗の言葉に、天使は大きく目を見開いた。とても信じられないという顔をしている。
 そんな天使に向かって、海斗はさらに言う。
 「僕を待ってる人がいるんです。僕のために迷っている人がいるんです。あの子をあのままにして、僕だけ安らかな場所になんて行けない。僕はまだ――」
 そう言ってうつむいてしまった海斗に、天使は困ったようにため息をついた。
 さて、いったいどうしたものか。
 すると、
 「では、少しの間だけ準備期間を設けてみたらどうだろうか?」
 それまで天使と海斗の会話を黙って聞いていた大天使が、ふいに口を挟んだ。
 天使は驚いて傍らの大天使を振り仰ぐ。
 「大天使ラファエル…」
 「海斗の待ち人が現れるまで、そして海斗と彼女が迷いを断ち切るまで。ほんの少しの間だけ待っていることにしよう」
 そう言って、天使と海斗ににっこりと笑う。
 海斗はまっすぐに顔を上げ、大天使の青い瞳を見つめるとしみじみと言った。
 「ありがとうございます」


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