猫目堂
C
老婦人の目からひとすじの涙がこぼれた。
感情に任せて泣くというのではなく、それはただただ静かな涙だった。
カイトはそれを見て、老婦人にそっとハンカチを差し出す。
「ありがとう」
老婦人はおだやかにほほ笑むと、そっと目尻に残る雫を拭った。そして、
「国の大義名分や利益、そんな難しいことは私には分からない。けれど、戦争はとても嫌ね。私たちにとっては、戦争はただ大切なものを失うだけのものよ。二度と…もう二度とあんな想いはしたくないわ」
「……」
カイトもラエルも無言だった。無言でじっと老婦人を見つめていた。
すると、老婦人は少し照れくさそうに肩をすくめ、わざと明るい声で言った。
「ごめんなさいね。年寄りが辛気臭い話をしてしまって」
「いえ」
「もう何十年も昔の話よ。今を生きる人たちにとっては、それこそ現実感の無い話。きっとそのうち歴史の底に埋もれてしまうわね」
そう言って屈託なく笑う。
「あの……」
そんな老婦人に、カイトはおずおずと声をかけた。
「何かしら?」
「その、髪と胸元に挿しておられるのが、英輔さんの薔薇なんですね?」
「ええ、そう。結局この薔薇の名前は分からずじまいだったけれど、私は英輔の父親に頼み込んで、この薔薇の苗木を形見としていただいたの」
「そうですか」
「私の家も庭も、空襲ですっかり焼けてしまってね。これだけが、私にとって唯一の英輔との思い出なのよ」
そう言って、老婦人は愛しそうに薔薇の花に触れた。
「戦争が終わってだいぶ経ってから、私は両親に勧められるままお見合い結婚したの。そして子供が生まれ、たくさんの孫にも恵まれてね…。五年ほど前に主人を見送るまで、本当に必死に生きてきたわ。後ろを振り返る暇なんてなかった」
老婦人は薔薇を撫で続ける。
その瞳はどこか遠い景色を映しているようだった。
「私ね、主人のことも、子供たちも孫たちのことも、真実本心から愛しているわ。でもね、最期はこの薔薇に囲まれてこの世を旅立ちたかったの。それが、たった一つの私のわがままね」
老婦人はそう言ってにっこりと笑った。黙って老婦人を見つめているカイトとラエルに、老婦人は無邪気にほほ笑みかける。
「こんなおばあちゃんが、髪に薔薇の花なんか挿していておかしいでしょう?」
はにかむように言う老婦人に、
「いいえ。そんなことはありません」
「とてもよくお似合いですよ」
二人は口々に言った。
「ありがとう」
老婦人はかすかに頬を染める。そして、
「これはね、目印なのよ。もう一度めぐり逢えたときに、英輔に私だと分かるように。こんな皺くちゃのおばあさんになってしまったけれど、間違いなく幼なじみの皐月なのだと分かってもらうために…。そのための目印なの」
そう言って、老婦人がうふふふと声をもらした途端―――
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