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猫目堂
E

 やがて男は観念したように顔を上げると、
 「君は分かっているんだろう?今さら、どんな顔をしてあの子に会い行けばいいんだ?」
 途方に暮れたようにそう言った。
 そんな男に、妻はあくまでも優しく笑いかける。
 「笑って。いつものように、普通に会いに行けばいいわ」
 まるで何でもないことのように言う妻に、男は激しくかぶりを振った。
 「出来ないよ、そんなこと。…私には出来ない」
 「どうして?」
 「あの子にも彼にも、とてもひどいことを言った。いや、それだけじゃない。頑固で独りよがりで……私は、本当はちっとも良い父親なんかじゃなかったんだ。ずっとずっと、あの子のためと言いながら、あの子に辛い思いをさせていた。いつも寂しい思いをさせていた」
 男は心底辛そうに顔をしかめる。
 「今さら、どんな顔をしてあの子に会いに行ったらいい?どうやってあの子に謝ったらいいんだ?」
 苦しそうに告白する男に、妻はやはり何でもないことのようにふわりとほほ笑んだ。
 「そんなの、今からいくらでもやり直しがきく事じゃない」
 妻の言葉に、男はぼんやりと顔を上げる。
 「やり直し?…そんな……出来るわけがないよ」
 「いいえ。人生をやり直すのなんて、本当はとても簡単よ。間違えたと思ったら、そこからまたやり直せばいいだけのことだもの」
 「しかし、今さらもう遅いよ……」
 あくまでもそう言い張る男に、
 「何言ってるの。遅いなんてことあるわけないわ。だって、そんなの誰が決めたの?やり直しちゃいけないなんてことないでしょ?たとえばよ、明日死ぬかも知れなくたって、今日いまこの時からだってやり直すことは出来るわ。決して遅くなんかないわ」
 そう妻が言うと、男は戸惑ったように妻を見つめた。
 「遅いかどうかなんて、誰にも決められないのよ。いつだって、自分の気持ち次第なんだから」
 妻はそう言うと、にっこりとほほ笑んだ。
 そして彼の頬にそっと唇を寄せると、
 「さようなら、あなた。幸せにね」
さっとくちづけして、まるで空気に溶けるように消えて行ってしまった。

 「待ってくれ――!」
 男は慌てて叫んだ。
 だがそこにはもう妻の姿はなく、男は呆然と辺りを見回した。

 カウンター席には紳士と美人がゆったりと腰掛け、店員の二人はのんびりとコーヒーを淹れている。
 まるで何事もなかったように………。
 (どういうことだ?)
 男は首をひねった。
 妻のいた形跡はどこにもなく、カウンターの上のライラックの花束がかすかに甘い香りを放っているだけ。
 (夢だったのか……)
 いやにリアルな白昼夢だったと思いながら、男は苦笑して何度も首を振った。
 それからおもむろに立ち上がると、会計を済ませて『猫目堂』を後にした。


 バス停に向かって歩く男に、
 「忘れ物ですよ」
 追いかけてきたカイトがそう言って差し出したのは、白いライラックの小さな花束。
 「どうして、これを?」
 男が不審そうに訊くと、カイトはにっこりとほほ笑んだ。
 「大切な思い出だから、あなたから娘さんに渡して欲しいそうです」
 「え?」
 「勇気を出して会いに行って、そしてそこからまた新しく始めて欲しい。…そうおっしゃっていましたよ」
 「……」
 誰が、とは男は尋ねなかった。
 ただその小さな花束をぎゅっと握り締めて、男は晴れ渡った空を見上げた。
 そして、
 「ああ、そうだね。君の言うとおりだ。いつだって、遅いなんてことはない」
 にっこりと笑った男に、空から真っ白な羽がひとひら舞い降りてきた。






《おしまい》




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あきゅろす。
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