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劣化していくぼくの睫毛



寒々しいほどに一面、白い壁。この部屋に入ると、意識や集中力が酷く散漫になるような気がして苦手だった。こんな、いかにも精神疾患の病人を閉じ込めるような部屋に置かれていては、治るもんも治らないだろう、と。あの遺体が見つかった路地の、向かいの家で捕まえた、明らかに不審だった男を見つめる。白い病衣を身に纏いながらベッドに座り込み、朧気な瞳で空を見つめるその姿は、自分の犯した罪とは裏腹に、どこか肩の荷が下りたかのように落ち着いた様子だった。昨日と変わらぬその景色に憂鬱な気分になる。出そうになるため息を堪え、ベッドの横にある椅子へ腰を落とし、どこか旅に出ている夢でも見ているのか、穏やかな様子の男を見つめた。時間はたっぷりある。おれは、今日も、同じ質問を繰り返し聞くことになるだろう。なぜ、殺さなくてはいけなかった、と。

ナマエ君、と聞き慣れた声に名前を呼ばれ、振り返れば、声の主は両手にマグカップを持ち、眉毛をハの字にさせながら困ったように薄く笑みを浮かべた。差し出された片方のカップを受け取る。手のひらから伝わる心地の良い温度。湯気を立てる黒い液体の香りに、張り詰めていた神経が解されるような気がした。この病院の主であり、今回の連続殺人の検死もお願いしている先生。彼は、こん詰め過ぎないようにね、と告げると、自身もベッド横の椅子に腰を落とした。相変わらず、目の前の殺人犯は上の空。窓のないこの部屋は、時間感覚を失いそうになり、ただ、静かに呼吸を繰り返す三人分の音だけが、やけに耳についた。

三体の検死体の情報をファイリングした分厚い資料を広げながら、彼はコーヒーをすすり、うーん、と小さく唸った。今回は、今わかっていること以上の情報は出てこなかったようだ。

やっと身元がわかった三つの遺体に、生前の共通点はない。胴体はまだ見つかっていない。恐らくどこかに隠されているのだろう。残された手足にはどれも十字の傷跡。殺人犯はいずれも、被害者とは大して親交もない人間ばかり。ただ、どの殺人犯も共通した様子が見られた。これがまた、忌々しい。


「今回も、記憶が酷く混濁しているね」


前の二人みたいにね、と、先生は資料へ視線を落としながらそう告げた。わかっている。この男も、その前も、前の前も、犯罪時の前後の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。また、しばらく経てば、この男も、精神疾患扱いで、閉鎖病棟に隔離されるのが関の山だろう。そうしたら、こちら側からの接触はほぼできなくなってしまう。腰を落としたまま微動だにしない男のベッドへ手を置き、その虚ろな表情を覗き込む。朧気な視線は無表情のまま、こちらを認識。昨日、何度もした質問を、もう一度口にする。しんどいのは、お互い様だ。


「あんたは、人を殺したの。…覚えてるよね?」

「………い、え」


小さく否定を寄越す声。頭を左右に振る男の表情はどこか不安そうである。その言葉を無視して、どうして殺したのか、と問いを続ければ、男はわかりません、と再び頭を振る。これも昨日と同じだ。

使用されたナイフと、死体との切り口は合致。男の指紋もナイフにべっとりで、見つけた当初全身に浴びていた返り血は間違いなく、死体の人間のものだった。逃れようもない事実しかなかったが、いつも動機だけがわからない。少しでも記憶の片鱗が戻ればと、男の目の前にビニールに入れたナイフをぶら下げる。見覚えがあるはずだ。眉間に皺を寄せた男は、じっとナイフを見つめた。向かいの家で見つけた時、手に持っていたものだ。これに関しては覚えているらしい。男の瞳は不安そうに揺れた。


「どうしてこんな、危ないものを持ってたの」


しかし、再び横に振られる頭。気づいたら凶器を持っていて、いつの間にかあの場所に居たのだと。そんなわけあるか、と、怒鳴ってしまいたいがそれは昨日散々試した。男の様子に苛立つ感情を抑え、じゃあ、これに覚えはあるか、と亡くなった女性の写真を男の目の前に差し出せば、目を見開いた男は、今度は怯えた様子で知りません、と繰り返し、毛布を手前に引き寄せる。目をそらすように顔を覆う男の腕を掴み無理矢理ベッドへ押し付ける。小刻みに小さく肩を震わす男に、舌を打てば、男は肩を大きく震わせた。怯える両目はおれを見たあと、目の前に差し出された写真へ視線を落とす。生前の可愛らしい女の写真を見つめ、男はガタガタと小刻みに体を震わせながら嗚咽をこぼした。


「…し、知らないよ…こんな可愛い子、なあ海兵さん、本当におれが殺したのか」


震える声が縋るように泣き言をこぼす。泣いてもダメだ。放せば、すぐに自身の目を覆おうとする、男の腕をベッドへ強引に押さえつけたまま、よく見ろ、とその写真を男の目前へ差し出す。男は、苦しそうに悲鳴じみた声で咽び泣きながら、頭を激しく横に振り、やめてくれ、と繰り返した。

激しく暴れる男を押さえつけるおれの、肩にかかる圧力。横から伸びた手に写真を取り上げられ、思わず立ち上がれば、おれから写真を取り上げた先生は、またいつもの、困ったようなハの字の眉毛。おれを殺人犯から強引に引き剥がすように腕を引かれ、ベッドから離される。だめだよ、彼は患者なんだから、とこちらを咎めるような声色。患者以前に殺人犯だ、と言いかけたが、泣きじゃくり暴れる男を目の前に疲弊感を覚え、すこし一服して落ち着こうと、煙草を取り出し、一本、口に咥える。


「こらこら、禁煙だよ」


そう言いつつも責める様子のない先生は、持っていたファイルへ、今は亡き女性の写真を丁寧にしまった。オイルライターを胸ポケットから取り出し火を点ける。その時、泣きじゃくり暴れていた男が突然、その五月蝿い口を閉じ、目の色を変え、こちらのライターをじっとみつめる。さっきとは明らかに異なるその様子。一体なんなんだ。どこか恍惚とした表情をした男へ歩み寄り、ライターを目の前へ差し出す。カチン、フタを開け、火を灯せば、男は揺れる炎をその瞳に写した。ライターを左右に揺らせば、瞳も同じく火を追いかけるように左右へと移動する。


「前にもこういう光を見たことがあるのか」


は、と意識が浮上したのかこちらへ視線を寄越した男は額に汗をかきながら、見たことがある気がする、と呟いた。




劣化していくぼくの睫毛



夕暮れが町を橙色に染める。あのあと男はすっかり、物言わぬようになってしまったが、少しだけ進展があってよかった。書店で購入した精神障害の本を傍らに持ちながら、足を進めれば、いつもと変わらない平和な町。少しでも是正に繋がればと、早めに仕事をあがれた日には、巡回して帰るのが日課になっていた。顔見知りの住人がいれば、丁寧に挨拶を寄越してくるので、一言、二言と、世間話を交わす。この親切な人たちが、ある日突然殺人鬼に変わってしまうかもしれないなんて、想像しながら。

紫煙を吸い込みながら巡回を続けていると、目先に、古美術商の前で佇むあまりに見慣れ過ぎた姿を見つけて、その名を呼ぶ。相変わらず物騒な刀を傍に抱えている姿がこちらを振り返り、隈のひどい双眸と視線が交わる。ゆったりとした動作でこちらへ歩み寄るロー。周りにいるのは、仲間たちなのか、こちらを見ると、げ、と顔を歪めた。そういえばいまは海軍の制服を着ていたな、と自覚しながら、周りで引き攣る男共に笑顔を返してやる。おまえら、捕まりたいの、と。さすがに正義を背負ってる仕事中に、海賊共と仲良く話しているわけにもいかないだろう。まあ、逃がしてやる義理もないか、と傍らの拳銃へ手をかければ気の抜けた声が、あれ、とこちらを指差した。


「あんたこの間の……海軍だったのか…」


Penguinと書かれた帽子の男がそう声を上げる。飯屋で会った時のことでも思い出したのだろう。さすがにあの時よりかは、こちらを警戒している。しかし、この間会った時も思ったが、船員たちが揃いも揃って同じつなぎを着ているのは一体なぜなのだろう。ユニフォーム、なのか。興味がなさそうだと思っていたが、意外とそういった類のものが好きなのか、とローの様子を伺えば、逆に、物珍しいものでも見るかのようにまじまじとこちらへ注がれる視線に気づく。なんだよ、とその顔を睨み返せば、怪しく口角をあげた彼は、別に、と視線を反らした。Room、と能力の円を拡げる。逃げる気か、と銃を腰から抜けば、ゆっくりと体を屈めこちらへ近づいてきたローは、密談でもするかのように、おれの耳元で囁いた。あとで会おう、と。次の瞬間には、その場から全員が姿を消した。便利な能力である。

ああ、あいつまたうちに来るのか、とおれはため息を漏らしながら、虚しく取り出した銃を、腰へ戻した。


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(遅かったな)
(…なんでおまえが、おれより早く家にいるのよ、ていうか鍵は)
(ん?…あぁ、いらねェ)
(や、そういう意味じゃない。はぁ、さっきの能力か)
(あぁ……しかし、海軍の制服ってのも、意外と悪くねェな)
(………は?)
(いつもよりいい男だったってことだ、性的な意味で)
(おまえねえ…)








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