23
「はいじゃあ今日はこれで終わり、明日は遅刻するなよー、遅刻したやつは現地集合だからなー」
 解散、と言い切った学科担任は名残無く教室から出て行ったけれど、クラスからは生徒が立ち去る様子もなく、寧ろ時が経つに連れざわざわと騒音が大きくなっていくようだった。
 帰るかと鞄を持った蓮が不審そうに首を傾げると、途端、前の席の女の子がこそこそと小さな声で会話していることが聴こえてきた。
「―――……このあと飲みあるのかなぁ?―――」
 きょろきょろと周りを窺うような小声に蓮が気付き、そういうことかと掴んだ鞄をぱっと離す。
 蓮も同様に少しくらい様子を窺っておくかと溜息を吐きながら辺りを見渡すと、ふと、にっこりと微笑みかけて来る恭祐に気が付いた。
「なに?」
「んー……」
 蓮を見て口角をあげた恭祐は一瞬だけ短考を見せたのち、躊躇いもなく緩やかに手を挙げた。
「はーい、ちゅうもく〜」
 そして、声を張り上げることもなく、気だるげながらも確実に教室中に響くだろう声をあげながら、ゆらゆらと手を振っている。
「このあと飲み行くひと〜っ?」
「、」
 席に座りながらも緩く掛けられた声はしっかりと教室の端まで聞こえたらしく、教室の前方からもこちらの様子を窺ってくる仕草が垣間見られた。
 そして次の瞬間、怖ず怖ずと話し掛けてきた前列の女子が参加したいと頬を赤らめた台詞を皮切りにどんどんと恭祐の周囲に人が集まってきたのだけれど、恭祐はいかにも慣れた風で動じる気配もなく、自分のノートから紙を切り離しては参加者の名前と連絡先、それと出身の県を書くように笑顔で行為を促しているようだった。
 たった一瞬にしてこの広い教室を支配した恭祐に驚き、蓮はぽかんと口を開くことしかできなかったけれども、恭祐は適当そうに指示を出しながらも的確に物事をトントン拍子に進めていく。
 けれども今は未だ正午3時をまわったところ、飲むのは夜だろうにこの人数をどうやって再度集めるのだろうかと蓮が思っていると、恭祐は紙の上部に自分の携帯のメールアドレスを記載して、その隣に不格好な猫の絵とあとで店を連絡するとの旨を書いていた。
 ぎこちない周囲の空気からはその猫を「可愛くない」とくすくす笑われながらも「えー、かわいいデショー?」と柔らかく微笑む恭祐に、その画がわざと描かれたものだと知る。
 すっかり和んだ周囲を見ながら、こいつナニモノ、コミュニケーション力半端ねぇじゃん、と蓮が隣で行われている光景に魅入っていると、その視線に気付いた恭祐が蓮を見て話し掛けてきた。
「イガも行くっしょ?」
「、イガ……?」
 聞き覚えのない言葉に蓮が首を傾げると、恭祐はレクレーションのプリントに書かれている蓮の苗字をなぞってから頭の中に浮かんだ多くのパターンを空中へと逃がしていく。
「イガラシだから、イガ。だめぇ?えぇー、じゃあとなにが良い?イガイガ、イガっぺ、イガっち、イガたん、イガやん―――」
「―――イガで良い、イガで!」
 到底男につけるには恐ろしいネーミングセンスが蓮の周りをふよふよと通り過ぎていくものだから、蓮は勢いで言いきってはまだまともなあだ名を選択していた。
 考えてみれば子供のころから一緒だった悪友たちからの呼ばれ方は既に決まっていて、家族ぐるみの付き合いをしている奴らからは苗字で呼ばれることなどは到底ありえないことだった。
 人生で初めての響きは未だ慣れずにどきまきと蓮の心臓を揺らしたけれど、よく考えてみたら、武人たち以外の友達なんて初めてかもしれない、という事実に考え至ったとき、少しだけ、ほんの少しだけ心の奥底が暖かくなっては正の感情が生まれつつある自分に気付いてしまった。
「あ。オレなんでも良いよ、きょーすけでもきょーちゃんでもジンくんでもぉ〜」
 じんないきょうすけ、という文字列からにこにことあだ名を抽出する恭祐は普段から呼ばれ慣れて居るのだろうか、何で呼ばれても構わないとお得意の笑顔で蓮に尋ねてくる。
「あー……じゃ、きょーすけ?で」
「うん。きょーちゃん、で」
「てめ、なんでもいいっつったじゃん」
「えぇー、なんかイガ似合うし〜。いいじゃん、きょーちゃんきょーちゃんっ」
 パン、パン、と手の平を叩いて喜ぶ恭祐に言い返す言葉も見当たらない蓮は呆れて、じゃあそれで、と投げやりに返事をする。
 その間にも、恭祐が回してと言っていた紙切れにはびっしりとクラス中の名前で埋まっていて、誰も言い出さなかっただけで表情の下では皆交流を図りたい気持ちはあったのかと感心してしまった。
「よし。」
 段々とバラける教室内、まぁこんなもんかな、と紙を見ながら人数を把握した恭祐はどこかに電話を掛けていて、聞かずもがな飲み会の場所の確保をするつもりなのだろうとわかった。
 今から!?と蓮が焦るのは当然のことで、新入生や新入社員の密集する4月上旬に、まさか今更空いている店などないだろうということは蓮でさえ知っているからだ。
 そもそも予約もせずにこの大人数を集めたのかと蓮がびっくりしている傍ら、恭祐は「大人63人なんだけど、大部屋あいてる?」と何食わぬ顔で指示していて、空いているわけがないだろうと蓮が呆れ返った、―――その瞬間。
「うん、新宿あたりが良いかなぁー。そぉー。ハァーイ、ありがと、よろしく〜」
「、」
 恭祐は悩む表情すら見せずに通話を切ってたあと、パシャパシャと適当に名前を集めた紙を携帯のカメラで撮っていく。
「……なにしてんの?」
「会場決まったから連絡ー。メールしなきゃデショ?」
「え、会場決まったの!?つか連絡すんのになんで写真撮ってんの?」
「えー、会場はいま電話して抑えたしー、コレはカメラが文字列認識してぇー、メールと電話帳に勝手にメアド入力してくれんのー。優秀チャン。」
 平然と物凄いことを言う恭祐はあたかもそれが普通であると言い張っているようで、蓮はそんなはずはないだろうと小さく首を横に振った。
「マジで……、どこの最新機種よそれ」
「えー、どこだっけなぁ……まだ日本売ってないんじゃないの、これ。ていうか限定生産だっけぇ?よく忘れちったケド」
 ハイ終ーわり、と言いながら参加表を手放す恭祐は本当に写真を撮っただけでメールアドレスが入力されたのか、「かーいーじょぉー」とメールの内容を口に出しながらポチポチと指をフリックさせているようだった。
「イガどうすんの、一回帰んのー?おれ幹事っぽいし一緒行ってくれると助かるんですけどぉー」
 行くとも言っていない飲み会の参加も恭祐にとっては最早決定事項のようで、蓮は少しだけ狼狽えながら口を開く。
「、や、でも俺飲み屋とか取ったことねぇし役立たねぇよ、たぶん」
「えぇっ?どんな生活してたのそれぇ〜」
 からからと笑う恭祐は蓮の言葉を疑っていたようだったけれども、蓮は至って本気とでもいうように実家を思い出しながらその現状を教えてあげた。
「どんな生活って……ツレん家が酒屋で仕入れ放題の生活?タダでセルフ飲み放題みてぇな。」
「まぁじでぇ?」
 蓮の瞳を見ながらも、スッゲェ!と笑う恭祐の右手は素早くスマートフォンの画面をフリックしていて、同時に行える器用さに蓮はぽかんと口を開いてその光景に見入ってしまう。
 蓮と会話しながらも素早く動く指先、おーわり、と恭祐が携帯を投げ出した次の瞬間、蓮の携帯がブルブルと震え出す。
 恭祐から送られてきたメールはメーリングリストで一斉送信になっているようで、その登録の仕方はおろかこの短時間で店の地図やURLまでの詳細情報を貼付けるという仕組みは最後まで分からず仕舞いだった。
 チャラチャラした見た目に反したスマートな行為に蓮が驚きを隠せずにいると、恭祐は「ねー、どーすんのー?」とデコピン宛ら蓮の携帯電話を中指で跳ねてくる。
「……あー、」
 一度家に帰れば確実に出歩きたくなくなる出無精な自分を知っているからこそ、蓮は恭祐に着いていくと、ついでに大学の周りでも案内してくれと教室を後にした。
 そして教室の外に行って改めて思い知らされる、恭祐が目立つのは大学内だけではない、その風貌や振る舞いも相俟ってどこに行っても女性陣の視線を奪い切っているということを。
 つい先日もこんな思いをしたなぁ、と芸能人である恋人を思い出すと同時、数々の視線にも興味がないとすり抜ける恭祐に、健悟の面影が重なった。
 そこでふと思い出したのは健悟と結んだ約束事、誰かと出掛けるときには必ず連絡しろというそれだ。例に漏れず健悟に帰りが遅れるとメールすると、健悟自身も今日は撮影が長引いているらしい、時間か合えば一緒に帰ろうという小さな約束がかえってきた。
 了承とともにすっかり忘れていた事実、明日からレクリエーションで4日間ほど家を空けるとメールを出す。てっきり口うるさい涙目で電話が掛かって来るかもしれないと惨状を覚悟したけれど、いくら恭祐と話していても右ポケットに入れた携帯電話が震えることはなかった。ぷつりと連絡が絶たれたそれは撮影に戻ったという事実と同意であり、メールを見ては騒ぎ出すだろう銀灰を頭に思い浮かべてはくすり、柄にもなくひとりで笑ってしまった。



23/60ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!