馬鹿じゃねぇの……、と蓮が小さく呟くと、健悟は少しだけ目を伏せながらぐっと唇を尖らせた。
「……だってさぁ、蓮これから大学生になるんだよ? いらない飲み会やらコミュニティーやらも増えるだろうし俺の知らない知り合いも増えるだろうしさぁ……」
 ねぇ、と、いつもは出さぬ縋るような声音と瞳で見つめられて、その言葉と言動に、吐き出そうとしていた言葉をうっと飲み込んでしまう。
 蓮の好きな顔で、蓮の好きな角度で、蓮の大好きな甘い声を熟知しているのだろう、健悟が計算でやっていると分かっても本当に淋しそうに映るそれに何度負けてしまったかわからない。
「、…………やだよ、おれ、おれの知らないところに蓮が行っちゃうの」
 可愛い嫉妬を含めながら、下がり眉で顔を覗き込まれれば、蓮が言い淀んでしまうこともまた仕方のないことだった。
「、」
 ぐっ、と蓮が拳を握っても変わることの無い健悟の哀しそうな顔、それを目の前で隠すことなくされてしまえば、この顔をさせているのは自分、こんなに哀しませているのは自分なのだろうかと、なぜだか此方が哀しくなってくる。
 だから、どうせ、今回も―――……。
「、………………わぁーったよ……」
 はぁ、と溜息を吐きながら表情を曇らせる蓮と、それとは正反対とでもいうようにぱぁっと明るくなる健悟の顔色、所詮はただの演技に絆される自分が悪いということは分かっている。
 甘やかしている自覚は確かにある、けれども―――それ以上に甘やかされている自覚があるのだから、たまには此方が歩み寄っても罰は当たらないだろうと、そう思ってしまうのだ。
「……それってどのレベルから? おまえの知らない奴と行くときに言えばいいわけ?」
 はぁ、とまたひとつの溜息、そのあとで妥協案を提案すると、健悟はまるできょとんと眼を丸めてから、こてんと首を傾げた。
「え、ちがうっしょ」
「は?」
 さもあっさりと否定をする健悟につい声を出してしまうと、健悟の顔が一瞬にして顰められた後、先程掛けられた声とはワントーンもツートーンも低く下げられた声が降って来る。
「……だってコッチ、あの幼なじみも来るんしょ?」
 コッチ、と言ったのは東京のことなのだろう、日取りは明後日、この家から自転車で十五分ほどのところに引っ越してくる武人を思い、酷く嫌そうに顔を歪めているようだった。
 だからただの幼なじみじゃん、と言えば言うほど逆効果、さらに機嫌が悪くなるだろう健悟を知っているからこそ蓮は溜息のみに留めて、はいはい、と聞き流す。呆れた蓮を見た健悟がわざとらしくむうと頬を膨らませたけれど、呆れた蓮が更に溜息を吐くものだから、健悟は話を纏めるかのように同じ言葉を繰り返す。
「とにかくココ。この家を大学以外で出るときは、ゼッタイ。」
 ここ、と人差し指で指したのは自宅の床、休日遊びに行くときだけではない、大学のあと飲みに行くときにも例外はないとそう告げると、蓮はあからさまに嫌な顔をした。
「…………」
「れーんー!」
「えー…………」
「俺も教えるから、ちゃんと、ぜんぶ」
 めんどくさ、と蓮が呟くけれども、それを見つめる健悟は至って真面目な表情で、おねがいとでも云うような狡い表情を預けてくる。
「……おまえなんか必要以上に教えてくんじゃん、いつも」
 バレた? と小さく呟く健悟にあたりまえだろと返す蓮は、世に言う遠距離恋愛とやらをしていた頃の携帯電話を思い出す。
 今日は誰と仕事したやら飲み会やら、女の人が居るときははっきりと居ると断言するし、ラブシーンでキスシーンを録るときだって絶対に報告が入っていた。誠実にきちんと告げられるそれがあったからこそいくら離れていても安心しきれていた自分は否めない。
「れーん、知ってる?……世の中の同棲してるふたりが別れるのって、スレチガイが多いんだって」
「、」
 一瞬、声を低くした健悟が発した言葉一つ、擦れ違いというそれには嫌というほど身に覚えがあって、健悟と付き合う前の一か月、気まずい思いだけを抱え二度と逢えなくなっていたかもしれないあの時期を示唆しているようにも聞こえた。
「俺、……蓮とそうなりたくないな」
「…………」
 ぼそり、床に向けて落とされた言葉は実証を兼ね備えているからか妙な説得力があって、そんなものこっちだって願い下げに決まっていると、蓮は顔だけで言葉を表した。
「だから、……ね?おねがい。ちょっとめんどくさいかもしれないけど、おれにちゃんと安心させて?」
「…………」
 ―――安心。
 それは、健悟からずっと与えられていたものだ。直接的な言葉を得意としない自分でも甘受して、たくさんの安心を届けてくれていた。
 それを帰す番だ、といわれれば筋は通るもので、これから先暫くはこの家にすませてもらうのだ、何か少しでも返せるものがあるならば、それに従うのも筋と言うものなのかもしれない。
「……はぁ……、……わぁったよ、こんくれーでいいなら、ちゃんと言うよ」
 諦め混じりにそういった瞬間、健悟の表情が一気にぱあっと華やいで、本当に嬉しそうに目を細めるものだから、そんな表情を引き出せたというそれだけで、今この瞬間の選択肢は間違ってはいなかったのだろうと単純にも思わされてしまった。
「うん、じゃあ……―――約束。」
 そう言いながら左手の小指を差し出してきた健悟はまるで子供に言い聞かせるようにピンと小指を張っていて、付け根に光るシルバーリングが言葉通り約束を示しているようでもあった。
「俺がひとつお願いしたからね、蓮も良いよ、なにかあるなら今のうちに決めておこ?」
 かちり、小指と小指で指輪を鳴らしながら健悟が目を伏せるものだから、まるで神聖なことをしているかのような気分にすらなってしまい、つい反応が遅れてしまった。
「……あー、うーん……でも今まだこっち来たばっかでわかんねーし、……それ、保留で良い?」
「うん、もちろん」
 にっこりほほ笑んだ健悟は指切りを終えているというのに蓮の指を離すことはせず、そのまま蓮の指を絡め取りながら握り締めていく。
 健悟からの唯一のオネガイを聞いたそのあとは家事の分担を決めたけれど、どうせいままで全部自分がやっていたから、と全て引き負おうとする健悟にはつい、自分はいらないのかと、蓮の頬が膨らみむくれてしまったこともしかたのないことだろう。
 必要以上に長い時間をかけて話し合った分担は、基本的な割り振りのみ。曜日で振り分けようだなんて、相手の職業柄通じないと分かっているからだ。
 俳優なんて不規則な仕事をしているのだから家に帰らない方が多いことだってあるだろう、そんなときは全部自分がやってあげられれば良いと、そんな覚悟くらいは持って睦に料理も一通り教わってきた。基本的な割り振りは決めたものの、結局は相手の喜ぶ顔が見たくて領域を侵しそうな自分は見えている。
 暫定のそれを冷蔵庫にぺたりと貼っていると、もう待てないとばかりに後ろから健悟が抱き着いてきた。
 うなじに顔を埋めるようにしながらすんすんと匂いを嗅がれては、あむ、と噛み付かれてしまい、首筋に歯型ができているだろうことを悟った。
「………………」
 今にもこの場で押し倒して来そうな健悟は聞かずともいますぐ寝室に行きたいと空気が言っていたけれど、所詮は未だ一日目、寧ろ健悟の家に着いて数時間も経っていない間の出来事だ。久しぶりに逢ったからこそのそれは分からなくもないけれども、これからこの家に住む以上、何度も何度もなし崩しに流されてしまいそうな予感があった。
 だからこそ蓮は噛みついてくる健悟を首筋に感じながらも、小さく数度頷いて真っ直ぐ前を見た。
「……決めた。俺のオネガイ。」
 え、と後ろから聞こえる声を斬るように、腹の前で組まれた手の甲をペチンと叩く。
「俺がイヤだって言ったら、きっぱりすっぱり止めること。」
「、えっ……!!!」
 蓮が振り返ると健悟は顔を引き攣らせながら眉を顰めていたけれど、蓮はわざとらしくにっこりと微笑みながら健悟を見つめる。
 なにを止めるか、そんなことは主語を言わずとも分かっている、だからこそ動きを止めた健悟だったというのに、蓮は嘘だと紡ぐ素振りも無く、当然とでも言いたげに健悟に笑いかけるのみだった。
「いいよな、さっきおまえに言われたおれのも相当大変だし。俺が一番嫌いで一番面倒くせぇ方法でもおまえのためにやってやるっつってんだよ。じゃあ、おまえも一番嫌なことを俺のために我慢するのも、当たり前のことだよな?」
「……、れっ、れんっ……ちょ、それは……!」
「つかこの前三連休でこの家に泊まったとき、朝晩カンケーなくヤられたことおれ全然根に持ってっから。」
「……!」
「なんかもうすげぇびっくりしたもん、おまえその歳になってそんな盛りっぱで、ココ住んだら俺どうなんの、っつー」
 蓮は、はぁ、とわざとらしく溜息を吐いてから、地味にずっと心配していた事項が柔らかに解消された気配を感じていた。
「やー、よかった、ひとつ肩の荷下りたわ」
 ぽんぽん、と健悟の肩を叩くとあまりにも悲愴を漂わせているものだから、語弊があったか、と蓮はもう一度己の言葉を考え直した。
「あ、誤解すんなよ。俺別におまえとヤんの嫌いなわけじゃねぇから。きもちーし、おまえ上手いし。ただおめー途中からマジで意識飛ばす勢いでガッつくからわりぃんだよ」
「っ、それは蓮がっ!」
「あ?」
「……、なんでも、ない、……デス……」
 顔下から睨みをきかせる蓮を見た健悟がぐっと言葉を飲みこむ。

 ―――蓮がきもちぃきもちぃ言うからじゃん!

 そう言ってしまえば二度と声も出さなそうな頑固な蓮を知っているからこそ、言ってしまいたい気持ちを最大限に縛り付けて胸底に押し込めた。
 ぐっと我慢している健悟をどう勘違いしたのか、蓮はぽんぽんとその肩を叩き、にやにやと笑いを噛み殺しながら健悟へと話し掛ける。
「―――まあ良いじゃん、そんときゃ、その気にさせりゃ良いんだから」
 な、ときらきらとした笑顔で語りかけてもその顔に可愛いと冗談のひとつすら言えない、うそだろ、と呆然としている健悟に向けて蓮が掛けるのはたった一言。
「……とりあえず今日は疲れたから、―――ヤダ」
 にこ、と満面の笑みで健悟に笑い掛けることなど何か月ぶりの出来事だろうか、恐怖の一言を発することで絶望に満ちたような顔をするものだから、その顔見たさに言っていると、なぜ気付かないのだろうか。
「…………うっそでしょぉー……」
「良いよ別に無理矢理ヤっても、……ただ俺はどこ行こうともゼッテーおまえにいわねぇから」
 お互い様だと、無理矢理の等価交換を仕掛けてきたのは其方の方だと、そう言い聞かせるように笑みを浮かべた。
 こんなにのんびりと過ごすことなんて本当に久しぶりなのだから、本当は、セックスしようがなにしても良いに決まってる、ただ、……どれだけの覚悟でそれを言ったのか、見たかっただけだ。
 休みもないだろう芸能人が休日返上で迎えに来てはずっと運転しっぱなし、せっかくのオフに一秒とて体を休めていない彼が心配でありとにかくまずは寝ろと、そう言ってやりたい気持ちを誤魔化すように蓮は健悟の手をとった。
 ―――抱き着きながら寝るだけだって、こいつとだったら、なんだって気持ちが良いに決まってる。
 口にはせずともその言葉は表情に、雰囲気に十分すぎるほど反映されていて、健悟の手を引っ張りながら寝室へと入る蓮に健悟自身困惑しているようだった。
 見慣れたベッドにわざと音を立てながら、ふたりで倒れこむ。二人寝てもまだスペースが余っている横幅、誰が掃除しているのかいつ来てもシルクのシーツは端までぴっちりと揃えられていて、二十四時間回りっぱなしなのだろう空調機が余計にあの二段ベッドを記憶から遠ざける。
 思い出がたくさん詰まり過ぎているあの狭い二段ベッドに蓋をして、今日から始まる新たな場所、新たな枕に顔を一度押しつけてから、蓮はもぞもぞと体勢を整えた。
「……おやすみ、けんご。これからよろしくな」
 そして、にやりと微笑んではわざとらしくその腕の中に歩み寄る、滅多にしない行動に健悟は指先をぴくぴくと反応させながら目元を引き攣らせていたけれど、蓮はその表情を楽しそうに笑いつけているだけだった。
「……ちょ、ほんと、天国か地獄かわかんねんすけど……」
「んー、布団ふかふかだし、俺にとっちゃ天国だね」
「でしょうねっ……!!!」
 くっそぉ、と下唇を噛んだ健悟がぎゅうと抱き着いてくるものだから、その意思の硬さは珍しいと思うと同時、それほどまでに逐一報告が欲しいのか、と思う。
 分かりやすすぎる程に降り注がれる愛情に、それがなくなればきっと終わってしまうのだろうと知っているからこそ、この面倒くさい筈の状況が、嬉しいと思ってしまっている自分も否めない。
「……おまえもいるしな」
「、え!」
 今日からずっと、という言葉は喉に絡めるだけに留めて、蓮は目の前にある少し驚いた表情にふっと笑いつけてから、軽くシーツを蹴って、芸能人らしい潤いを帯びた唇に小さなリップ音を落とした。
「―――おやすみ。」
 言いながら笑みを浮かべて、健悟の心臓に額を押し付けるようにして自らの腕をその背中へとまわす。
 今日からはずっとこの温もりを離すことは無いのだろうと、そう思えば思うだけ嬉しさが募り蓮は溢れ出す倖せを隠さぬまま健悟にしがみ付いた。
「……ひっ、卑怯すぎる……!」
 余りにも幸せそうに寝る蓮に手が出せない健悟は、そう呟いては、蓮の背中周辺をうろうろし続ける右手を、その服の中に入れるか入れまいか、蓮の寝息が聞こえてくるまで延々と悩み続けていた。





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