三月二十二日。春分の日の翌日、世間的に言えばなんてことはないただの平日にすぎない。
 ただ、蓮の隣、運転席で嬉々としてハンドルをまわす芸能人様にとっては平日の定義などあってないようなもので、平日の昼間、些か人通りの少ない町並みを日常には相応しくない車で運転することに何の疑問も抱かない。
 かの有名な外車を慣れた手つきで走らせる横顔は聞かずとも楽しげで、蓮は後部座席に詰め込んだ大きな段ボールの数々に今更恥ずかしさが募ってきた。
 大学の入学式まであと一週間程度という日取りで上京する意味など高が知れている。大学まで電車で二駅、閑静な住宅街のど真ん中という立地の中、家賃も無料だという破格の条件がつけばこれに甘えるのは蓮ではない、むしろ睦がそこに決めろと煩いくらいだった。
「―――ハイ、着いた。」
 そう、他でも無い、―――健悟の家に。
「蓮そっち降りれる?」
「ん、余裕」
 隣の車との隙間を覗き込むように蓮が窓下に目をやると、聴くまでも無い十分すぎるほどのスペースが存在していた。
 元々龍二が東京まで車を走らせる予定だった三月二十二日、その予定が見事に狂い、目の前にいる銀灰色の髪眼の持ち主が突如五十嵐家の玄関に足を踏み入れたのはつい八時間ほど前の出来事だった。
 会社員だとすれば労働法を遥かに侵しているだろう健悟だというのに、蓮と蓮の荷物を車に乗せてからは微塵の疲れも見せずに運転を続けていた。
 途中、高速で蓮が運転を代わったその時でさえ蓮の横顔を見つめることに余念が無いのだから、折角のオフに休息を得る暇はあるのだろうかと疑ってしまうことも仕方のないことだった。東京都内に入ったことで交通量も増えた道路に危ないからと半ば無理矢理運転を変えられて、蓮が小さく怒ったとしてもそれすら楽しそうにハンドルを握っているだけだった。
 そしてそのまま数十分、少しの東京観光を交えながら運転された健悟の案内を終えて着いた場所は案の定健悟のマンションの駐車場。
「―――あざっす」
 しゅるしゅるとシートベルトを外しながら蓮が告げると、健悟は何の問題もないとでも言うようにふわりと笑ってから、後部座席を陣取る段ボールへと腕を伸ばした。
「れん、荷物本当にこれだけ?」
「これだけだよ、つかほとんどおまえん家なんでもあるし。服とかは前に送ったじゃん。」
「うん、届いた届いた」
「……だっから、ニヤけんなっつの」
 終始頬が揺るみっぱなしの健悟に呆れた蓮が溜息を吐けども、当の本人は段ボールをふたつ重ねて腕に乗せ、はやく部屋に行きたいとでも言うように急かしているだけだった。
 蓮の予定としては今日の大きな出来事はまず引っ越し、そして明日は健悟と一緒に東京観光にでも行こうかと話していた。
 明後日は武人が東京に引越してくるものだから勿論手伝いに行かねばなるまい、比較的自由な時間ができた今日は健悟の家の中に自分のスペースを確保したり一緒に住む上でのルールを決めたりと、折角取ってもらった健悟のオフ一日目、のんびり過ごそうと話していた。
 健悟が二箱、蓮が一箱、たいして重くもないそれは睦から健悟へのお土産も含まれていて、健悟の家に通っていたこの数ヵ月の間にいつの間にか第二の家の様に私物が置いてあることに気付かされた。
 今更改めて貰うこともない合鍵で当たり前に健悟の家の扉を開けると、当の本人は楽しそうに鼻歌を歌っているようだった。ごきげん、という四文字が蓮の頭に過ると同時、それを咎めることもせずについ笑みを零してしまう自分も同罪なのだろうと思う。
 よいしょ、と蓮が春物のブーツを足で脱ごうとした……その瞬間。
「れーんっ」
 扉がガチャリと閉まった一秒後、後ろからぱあっと分かりやすい笑顔が惜しみなく降ってくるものだから、その分かりやすさと込み上げる可愛いという率直な気持ちに、蓮はつい口角を上げながらふっと笑い声すらあげてしまった。
「……あー…………ただいま? ってか?」
 求めていることが分かり易すぎる表情に向けてその言葉を与えれば、じわじわ、と嬉しさが身体中に伝染したのか、健悟がにかっと笑いながら飛びついてくる。
「―――おかえりっ!」
「ちょっ、てめ、荷物!!!」
 荷物を床に投げて瞬間的に飛びついて来た健悟へと反射的に叫びはするものの、ぎゅうっと目を細めて笑う健悟には何のダメージにもなっていないだろう事実を目の当たりにするだけだった。本当に嬉しそうに微笑まれて、身体全体で愛情を表現されて、此方まで嬉しくならないはずがない。
絆されない、……はずがない。
「………………」
 ああもう恥ずかしいやつ、と言うのは口先のみで、さっさとあがれと自分の家宜しく健悟に告げれば、それはもう嬉しそうに荷物を拾って蓮の後をついていく。
 すっかり慣れた家の説明を今更受けることもどうかと思ったけれど、「蓮の部屋はもうあるよ、ここね」と柔らかい声音と共に案内された部屋は五十嵐家のリビングよりも広いものだった。それはもう、本当にこの部屋を活用する日は来るのだろうかという疑念が沸いて来るほどに。
「部屋って……ベッドねぇけど?」
「え、俺が蓮とベッド別にすると思ったの?」
「…………思わねぇ自分がこえーよ」
 なんで?と当然の様に疑問を浮かべる健悟に吃驚することもなく、それすらも至極当然の様に受け入れている自分は二年前からすれば到底信じられないことなのかもしれない。
 健悟と付き合って約一年と七か月、たったそれだけといえば聞こえも良い短い時間のはずなのに、時間に比例することのない愛情を丁寧に与えられている自覚も十分すぎる程にあるからだ。
 こいつがどれだけ俺を好きかなんて、そんなもの、この一年半で嫌というほど思い知ったつもりだ。
「まぁでもだいたい遊びに来てたときと変わんないよ。蓮にあげるあの部屋もちょうど余ってたところだし。あ、知ってると思うけどここね、寝室」
 にやにやと締まりのない顔で指差した部屋こそ何度脚を踏み入れたか分からない場所、それが自分の意思かどうかは別として。
「入っちゃう?もう?」
「…………」
 楽しそうに身体中から音符を放出する健悟に呆れて、溜息と共に首を横に振れば、その答えが満足いかなかったのか健悟は一瞬で口を大きく開いて、肩を落とした。
「え〜!」
「やることあんだよ、まずは! っつか一日目くれぇしゃっきりしろマジで」
「いちにちめ…………うん。」
 いちにちめ、と噛み締めるように呟いた後、ふにゃっと目を細めた健悟を見て、だめだこりゃ、と蓮が肩を落としたことは言うまでもない。
 蓮の指いっぽんいっぽんに指を絡めながらその手を引いていく健悟について行き、慣れたキッチンや風呂場の説明を一頻り受けた後、ふと健悟が思い出したようにリビングで動きを止めた。
「……あ、そうだ。れん、れん、ちょっとここに正座して?」
「? ああ」
 そしてポンポンと健悟が掌で叩いたのはふかふかのラグの上、自分の真正面に蓮を正座させると、健悟は一呼吸後、コホンと小さく咳ばらいをした。
「?」
「……れんさぁ、今日からここに住むわけじゃん?」
 突如、真面目な顔へと変化した健悟にどきりと胸打たれながら、蓮は小さくこくんと頷いた。
「……最初だしさ、ちょっとルール決めておきたいんだけど。どうですか?」
「あー、いいとおもう」
 大事なことだから、と付け加えた健悟に変化した表情の意味を知り、少しだけ安心しながら同意した。家事分担の類いだろうか、たしかにそれは必要なことだよな、と蓮が快く頷くと、真剣な表情を崩さぬ健悟がすっと人差し指を蓮の正面へと差し出して来た。
「じゃあまず、俺が蓮にゼッタイお願いしたいことが一個あるのね。」
「……うん」
 至極真面目な健悟の表情に若干蓮が顔を強張らせながら頷く。
 職業柄、絶対に写真に撮られるなとか、見られちゃいけないからゴミ捨ては蓮がやってね、だとか、そういうことだろうか。
 そう思いながらどきどきと健悟の反応を待っている、と―――。

「―――……誰かと遊びに行くときには、ゼッタイ俺に連絡すること」

「、………………は?」
 何よりも大事、とでもいうように真剣な表情で呟かれたことに、蓮はずるりと肩の力を落としながら問い直す。
 しかしそれにムッとしたらしい健悟はチガウデショ!とでもいいたげに携帯電話を取り出して、ずいっと蓮の真っ正面へと掲げてきた。
「は、じゃないよ! 最悪電話でもメールでもいいから、これはゼッタイ。マストで。」
「、………………うわぁ……」
 他のことはとりあえずなんでもいいから、とでも言うような健悟の真剣な行動に呆れて目を逸らすと、健悟は眉をしかめ、段々と蓮の位置へと正座を崩しながら歩み寄っていく。
「! 馬鹿にしてる? これ超重要なことだよ? ねぇ?」
「…………、……えー……ヒくわー、おまえ……」
 家事とかじゃねぇのかよ、そっちかよ、と蓮が溜息をつきながらも、そういえばこいつはこういう奴だった、と心の何処かで納得している自分がいるのもまた事実だった。




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