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 いっそ村中に響く鐘の音よりも大きな心音は、この先のことすら悟っているからなのかもしれない。
 広い背中しか見えない状況に蓮が唇を噛み締めていると、漸く利佳の返答が返ってくる。
「――で?」
 たった一言。
 秘められた意味すら図れそうにない、たった一言だった。
 しかし、健悟は何を思ったか、利佳の一言を聴いただけで薄く微笑み、己の左手をテーブルの上まで持ちあげた。
 そして、蓮の位置から小指に光る銀が見えたのは一瞬、気付けば健悟は日本中の噂の的だったらしい左手の中指を愛しそうに撫で上げている。
「分かってるよ、焦んなって」
 そして、利佳に向けて少しだけ笑みを浮かべてから、疑惑の指輪を中指から摘み上げた。
 蓮の位置からすれば銀の輪でしかない其れだが、近くで見れば細かな模様が入っているのかもしれない。今になって、その事実を直視していなかったことに、模様すら知らないことに気付かされた。健悟の思い入れのある指輪、特別な指輪、それがテーブルの上を伝って利佳の指へと辿り着く。
「ふはっ、やっぱぶかぶかじゃねぇか」
「うっさいな、当たり前でしょ」
 いつか女子が言っていた。右手はコロコロと変わる指輪の中、あの左手の指輪がたった一つだけ、健悟の変わらぬものなのだと。あの綺麗な指輪は、彼女から貰った大切なものなのだろうと、そう言っていた。
 それが今、健悟の中指から利佳の薬指に嵌められた。サイズなんて合うはずも無い、ぶかぶかの指輪だ。
 それすら羨ましいと思えるのはきっと、健悟の所有物を貰えたことと、それ以上にあの麗しい音が奏でた「好きだ」という言葉が羨ましかったのだと、ただそれだけなのかもしれない。
「――ありがとう、利佳」
「……遅いのよ、来るのが」
 いつか訊いた事がある。健悟は本当は利佳が好きなんじゃないのかと。兄貴になるのはどうなんだと。それを言って怒られたからこそ二度と言わなくなったというのに、それはどういうことだったんだろう、あの真意は何処にあったんだろう、俺なんかにからかわれることすら嫌な位、健悟は利佳のことを――ずっと好きだったのか?
 じゃあ利佳もなんだ、彼氏が居るなんてずっと前のことだった? もう別れてる? 健悟の一挙手一投足に躍らされる俺を見て、二人は、何を思ってた?
「あー、手元に帰ってきたのなんて十年振りくらいじゃない、これ」
「いらない?」
「いるに決まってるでしょ、バーカ」
 十年前。
 十年前からずっと二人は知り合いで、あんなに大事にされてた指輪が、利佳のだった?
「……あはっ、……やっべ、あいつら当たってんじゃん……」
 悪態を吐いて来たクラスメートを頭に浮かべれば、ぷっと噴き出してしまって、目頭の奥がじんと震えた。
 緩く揺れる肩を自覚し、握ったままの掌に付いた爪跡を見てぼんやり考える。あいつらに向けて“おまえらが何を知ってるんだ”なんて言わなくて良かった、と。
 ――俺だ。
 健悟のことを知らないのなんて、俺が一番知らないんだ。これだけ一緒に居たのに、何も見て無かった。わかってなかった。
 段々と眼に薄い膜が張ってきたかと思えば、鼻から息が漏れてきて、今まで何も話してくれなかった健悟も利佳も、この状況の情けなさにも何もかもが嫌になってきた。
 でも、一番いやなのは、勝手にこんなに好きになってた馬鹿な自分だ。
 利佳のだなんて、そんなこと、先に言ってくれればきっとこんなことにはなってなかった筈なのに。
 ぼやけた視界でキッチンをちらりと一見すれば、愛しそうにぶかぶかの指輪を撫でる利佳が視界に入る。なんだよ、そんな顔知らねぇよ、十七年間一緒に居たのに、そんな顔、見たことねぇよ。
「あたしも、ありがとう。これ、護ってくれて」
 指輪を空に翳しながら満足げに笑う利佳が蓮の視界を独占する。その横では穏やかに笑う睦が居て、健悟の顔は見えない。
 こんなシーンをテレビで見たことがある。男女が居て、母親が居て。忠孝が揃えば見事に求婚の構図でしかない。所詮は自分があの中に入ったところで、誰が健悟と並べてくれるのだろうか。男同士だなんて、不毛だ。ありえない。馬鹿みたいだ。邪魔者なんて、俺だけだったんだ。

 好きって言った。
 何年経っても変わらないって言った。
 健悟の指輪が、利佳に渡った。

「ああ、あと、約束もね。健悟が守ってくれて感謝してる」
「バーカ。あんとき言ったじゃん、俺は約束は守る男なんだよ」

 背中しか見えない男が、優しく笑う顔が頭に浮かぶ。

“――俺は約束は守る男なのにー。”

 自転車に乗りながら、さらりと放たれた言葉が思い出された。あれは、俺にだけ言ってくれた言葉じゃなかったんだ。
 ずっとずっと前に利佳に言った台詞を、俺にも言っていただけなのか。

 じゃあなんでキスをして、抱き締めて、あんな風に笑い掛けてくれたんだ。あんな風にあどけない寝顔を晒して、朝起きれば一番に締まりの無い顔で微笑んで、壮絶なまでにこっちを揺らがす影響力は、一体なんだったんだ。
 たかが罰ゲーム、演技、誕生日、言い訳と共に繰り出された愚行を思い出してずんと肺が痛んだ。

 なんだよ、弟になるから? 仲良くしとこうって? 馬鹿じゃねぇの? 余計な御世話じゃねぇの?


 そんなの、……そんなのって、なくねぇか。






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あきゅろす。
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