12
「約束守るにしても遅すぎるって話だけどね」
「こらー、おい」
「いったー」
 普段は利佳に殴られる健悟が逆に仕返していて、全く痛く無いだろうそれに利佳も微笑み返している。和やかな空気が漂うキッチンと、陰翳に満ちた廊下との境界線は火を見るよりも明らかだった。
 至って幸せそうな光景。
「…………」
 ――こいつら、好きあってるんだ。
 そう思うだけで涙が滲んでくることは、よっぽど自分は健悟が好きだったらしい。そうだよ、つーか好きに決まってんじゃん。こんなに誰かと一緒に居たいとか思ったことねぇっつーの。なのに、結局俺の勘違いっつーか思い違いっつーか、最初から言えよ。どーしたらいーんだよ、これ。
「あー、やばい、緊張して来た」
「ははっ、ばーか」
 蓮の頬に涙が伝ったそのときには、今度こそ何時も通り利佳が健悟を叩いていたというのに、平和な日常の筈が蓮の顔に笑みは浮かんでこなかった。
 俺と居て緊張した事なんて無いくせに、なんて当たり前の悪態を吐いてみる。特別だって言ってくれたあの言葉さえ、今なら“利佳の弟として”なんていらないオプションがついてくる。学校で聴いた数々なんて嘘だって、そう否定したかったのに、今この光景を見て余計に健悟の言葉を信じられなくなってしまった。
 頭の中では処理出来ない事項ばかりが燻る。やはり盗み聞きなんてしなければ良かったと己を咎めたり、いつかは聴く事項だったのかもしれないと諦めたりで忙しい。
 しかし、複雑に縺れた思考のまま此処に居られる程神経が図太いわけではない。とりあえずはあの狭いベッドで冷静に考えてみようと、焦点の合わない瞳で廊下の淵を眺めたそのとき、再び睦の声が聞こえた。
「――それで。どうするの、蓮は」
「、」
 まさか会話の矛先が自分に向かうとは思わず、蓮は急いで焦点を戻して健悟の背を振り返った。たった数メートルに潜む男の真意を知りたいと思えどそれが叶う事すらなく、手も伸ばさぬままじっと会話の先を待つ。盗み聞きは止めようと誓ったばかりだというのに、自分が話題に出ては見過ごすことなど出来ない。自分が居ないと思われている今こそ、健悟の真意を知れるときなのかもしれない。
 妙な緊張に蓮がゴクリと喉元を揺らしたとき、聞こえたのは、「ああ」と楽しげな健悟の声だった。

「それなら大丈夫だよ。言ってたし、蓮。前ほど東京行きたくなくなったって」

 背と声からの情報のみだというのに雄弁に語られているのは、健悟が睦に向け至極満足そうに告げているという事項だ。
 健悟が言うのは、きっとあの展望台での話だろう。誰に言って悪いわけではない、勿論言うなと言ったわけでもない。それでも、あのとき話した事は誰にも知られたくなかったと思ってしまったのは、健悟に勝手な感情を抱いている所為なのだろうか。特別ではないと分かっているのに、少しでも特別でありたいと、そう思ってしまった所為なのかもしれない。
 あっさりと告げられた事項が何故か寂しく、こうして少しずつ健悟だけが知っている自分すら消えていくのだろうと思っていると、次に聴こえたのは睦の声だった。
「そう、良かった」
 よかった?
 なにが?
 根本が掴めない会話に苛立ちながら唇を噛み締めると、漸く利佳の口から確信とも取れる言葉が降ってくる。
「やっぱり健悟に任せて正解だったんじゃん? これから受験だっつーのに、また東京になんて家出されたらたまったもんじゃないっての」

 ――……は?

「あんたは? 撮影終わったらもうあっち戻んの?」
「そりゃそうだろ。俺の家東京なんだから。」
「蓮はいいの?」
「良いも何も質問の意味がわかんねぇよ」
 
 あ。
 笑った。

 健悟の肩が震えたことで変化を悟った蓮は、自分の身体の体温がすうっと一気に下降してしまったような不思議な感覚に襲われた。
 利佳が訊いて健悟が返す。たった一言。たった一言だけなのに、その一言は絡まった思考に衝撃を与えるには充分過ぎる一言だった。
 質問の意味がわかんないってなんだ。
 質問する価値もない、愚問だってことか。

 ――俺なんかどうでもいいって、そういうことか。

「じゃあ、今度はちゃんと……って、蓮?」
「え?」
 利佳が此方に気付いたのは、蓮がそのままふらりと揺れながら不安定に立ち上がった所為だった。もうどうでもいい、怒られると云う意識すらなく、隠れることすら面倒臭いと立ち上がる。
 俯いているからこそ金髪の隙間から健悟の表情は見えないものの、利佳の言葉で健悟が振り返ったことは分かった。眼も合っていない、言葉も交わしていない、ただ健悟の視界に自分が映っている。たったそれだけなのに、隠れていた時とは比べ物にならないほどに鼓動は跳ね、今更ながら正直すぎると実感してしまう。
 それでも、いま蓮の脳内で繋がりかけたひとつの仮定を辿れば、健悟に正面から向き合うというそれだけで、みっとも無いまでに泣き出してしまいそうなほどだった。
 どこからどこまでが、本当なんだ。
 駐車場に現れたあの日から、俺が東京に行かないようにするために成された演技をずっとしていたのか?
 田舎が良いなんて、嘘八百をついて俺を嘲っていた? あんな綺麗に笑ったことすら、演技だったのか?
 もしそうなら本当にすげぇよ、すっかり騙されたよ。世界中で賞取ってんだもんな、こんな糞餓鬼騙す位わけねぇだろうよ。そんな事まで演じれるから、芸能人、俳優って云うんだろうな。
 かーちゃんが頼んだから、……違う。“利佳”が頼んだから、仕方なく俺に付き合ってたのか。んだそれ、ふざけんな。
 本当は、利佳が好きで、それで?
 どっからどこまで、どの言葉までが本当なんだ。
 こんな時に限って、旅館で言われたあの台詞を思い出す。たとえ劇中の言葉一つとはいえ、きっとスクリーンに浮かぶ彼を誰しもが愛することだろう。俺もそうだ。言われて舞い上がって、見なければいけないところから眼を背けていた。
 やっぱり認めちゃいけなかったんだ。認めたから、今こんなに辛ぇんだろ。
 所詮は代用品でしか言われなかった言葉を、利佳は正面から本当の言葉で受け取れる。
 好きだって、愛してるって、何百回何千回、何万回だって言ってもらえるんだ。
「……、っくしょ……」
 ああもう、やばい。泣きそうだ。
 騙されてた。
 嵌められた。
 裏切られた。
 違う。
 俺が勝手に騙されて、嵌められて、裏切られたと思っているだけ。
 勝手に好きになった、それだけだ。
 何も産まない関係で、認めるから悪かったんだ。当たり前なのに、健悟を好きになったからって如何にもならないと分かっていた筈なのに、それには期待が大きすぎた。
 どっからどこまで、それとも、ぜんぶ、えんぎだったのか、なんて、訊いたところで肯定されるのが、今は一番恐かった。



12/50ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!