「あぢー……」
「きもちいー」
 そして、第一声。
 気だるそうに顔を顰め、頭を抱える蓮と、両手を広げて青空を直視している健悟。
「……」
「……」
「ははっ、正反対」
 お互いに目を合わせた後、先に噴出したのは蓮だった。
 まさに正反対の様子に小さく笑いながら、ザルを片手に歩いて行けば、その後ろを健悟は迷うこと無く着いていく。
 しかし、目の前を歩く蓮は如何見ても先ほどの笑顔とは程遠く、健悟は少し考えた後、堪えきれず口を開いた。
「なんでそんなイヤそうな顔してんの、空気も綺麗だし、美味しそうじゃん。やさい」 
「……え? ああ、そうじゃなくて……」
「ん?」
 めんどくさいのかな、程度の些細な事だろうと思っていたが、蓮の声のトーンが下がったことにより、嫌な雰囲気が広がっていく。
 そして、次の一言を聞いて、健悟は足を止めることになる。
「……あー、おれ、好きじゃないっつーか。……ここ」
「……」
 蓮は畑の上、地面を踏みしめながら溜息を吐いた。
 太陽を一身に浴びた青菜が元気に育っているその土地。敷地外へと目を配り頭の中で通学路を思い出せば、何百回と歩いて来た、一面の緑と青に包まれた世界が創造される。広い緑と、遠くに見える白い山。
 蓮は其の狭間に立っていると、まるで自然に吸収されてしまうかのような、将又一人取り残されているような深い感覚に陥ってしまい、何度見ても好きにはなれなかった。
 東京にある大きなビルも、人の多いその土地も、なにもかもがそれだけでうらやましい。現代っ子だね、と笑われてしまえば頷くことしかできないかもしれないが、風光明媚な地でさえ、慣れすぎた蓮の心には響かなかった。
 そしてその事実は、健悟の言葉を詰まらせるには充分な威力を持っていた。
「……な、んで?」
 呆然と蓮だけを見つめながら、たった一言だけ言葉を発する。
 その声は予想以上に低く、出会ってから数分といえど、楽しそうに笑っていた筈の健悟の、初めて聞く声だった。
 一瞬にして暗くなってしまった雰囲気と、細めた目に少し怯んだものの、原因が分からず如何することも出来ない。
「なんでって……普通に嫌じゃないですかこんなトコ」
 こんな田舎を好きになれる人の方が珍しいんじゃないか、と、蓮は正直に答えたのだが、それを聞いた健悟は一層傷つくような表情になってしまい、更に疑問が深まるばかりだった。
 廃れた田舎話など、関係も興味も無い癖に。そう思っても、初対面の人間に口にすることは阻まれた。なんなんだよ、と蓮は心の中で呟きながら、健悟を見ない振りして茶色い地面へと屈む。そして無言のまま、ザルを片手に茄子をもごうとした、そのとき。
「……“こんなトコ”とか、言うなよ」
 こつん、小さな衝撃が後頭部に走り、蓮は握っていた紫から指がするりと抜けてしまった。驚いた。
 軽い衝撃、きっとデコピンをされたであろう後頭部を撫でながら後ろを振り返ると、随分と高く見上げた位置に哀しそうな瞳が視界に入る。
「……良いっすよ、そんなフォローなんか」
 どうせあんただって、そう思ってるくせに。
 自嘲的な笑いを浮かべて見せれば、一層眉を顰めた健悟が、蓮の隣へとしゃがみ込んだ。
 所謂ヤンキー座りさえも似合ってしまう健悟を横から眺めていれば、その瞳が空や緑を映していることを知った。
 蝉に囲まれた新緑の中、健悟は遠くを見ながら呟く。此れが蓮の見てきた世界なのだと、そう噛み締めながら。
「綺麗じゃん」
「え?」
「俺は好きなんだけど。ここ」
 蓮を見ながら人差し指で遠くを指せば、蓮はその指を辿って近くに聳え立つ山の峠を目で追った。
 ここ、と称された一帯。山から視線を下ろしていけば、当然視界に信号は一つもなく、ただ、緑色に生い茂る野菜や稲が畦道に沿うように実っている。
 そして、蓮は再び健悟の指へと視線を戻し、まるで背景を合成したのではないかと思えるような健悟の姿へと行き着いた。
「蓮くんはさぁ、ずっと此処に居るから麻痺してんだって。俺ずっと来たかったし、こんなとこに生まれたかったよ。蓮くんがいま東京をあーだこーだ言ってるみたいに」
「……うそだ」
「ははっ、なんで此処で嘘つくの。老後とかぜってーこういうトコで暮らしたいんだけどな。電車とか人込みとか無理だと思うんだよねぇ、俺」
「……」
 そう言いながら、健悟は蓮の隣にしゃがみ込み、次々に野菜をざるへと運んでいく。
 物心付いたころから電車になど乗った記憶がない蓮にとって、都会の電車を想像することは出来ず、健悟の言うこともしっくりこなかった。
 だからこそ、信憑性の無い其れを信じられず、いくらなんでも東京人がこんなド田舎で暮らしたいなど、嘘でも良く言えたものだ、と、真っ向から疑ってしまうのも無理もない。むしろ、嬉々として蓮を手伝っていた健悟に、同情されたか、はたまた気を遣われているような気がして、なんだか心の奥に黒い塊と靄が無駄に増えてしまった。



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