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 しかし、作業の途中、一層健悟の香りが強調されたと思った瞬間、健悟が目の前から消えてしまった。
 作業に飽きたのかと、蓮が眉を顰めながら顔を上げれば、どうやらそうではなかったらしい。
 1本先の畦道に、大きな籠を担いだ背中の曲がったお婆さんがゆっくりと歩いていて、蓮が見たときには既に健悟はそのお婆さんに話しかけていた。
 そして、ちょっと待っててねーと笑いながら去って行き、健悟はお婆さんの荷物を代わりに担いで進んで行ってしまった。
「……」
 繰り返しの作業で欠伸混じりに収穫していた蓮とは反対に、健悟にとっては新しい体験ばかりだったからか、四方八方を見渡しながら作業をしていた。
 言葉はともかく、行動を見る限りでは楽しんでいる事が蓮にも充分に伝わっていて、いまも尚、楽しそうにお婆さんと話す健悟の笑顔まで嘘だとは到底思えない。そう考えると、もしかしたらさっきの話しは本当だったのかもしれない、という光が蓮の頭の中に浮かんできた。
「……はぁ」
 東京人からの言葉だというだけでまた卑屈になり、僻んでいた自分を溜息まじりに叱咤する。
 重い荷物を持ちながらも笑っている東京人。
 此処を田舎町だと鼻で笑う奴ならば、お婆さんの事だって無視していたに違いない。
 蓮は、少しずつ遠くなっていく健悟の表情を見ているうちに、心の奥に生成されたばかりだった黒い塊がだんだんと壊れていくことを感じていた。
「よし、」
 軽くなった心と共に、残り僅かだった収穫を直ぐに終えて、道が分からない健悟のために日陰に移動して待つことにした。
 じりじりと暑い炎天下、木陰に移動して横になると、アブラゼミが必死に鳴いている様子が視界に入ってくる。
 木を懸命に登っているクワガタも、東京へ持って行けば高値で売れると云う噂は本当なのだろうか。
 視線を木の幹にあわせたまま呆けていると、蓮の頭に色々な考えが浮かんでくる。
 蝉もクワガタも短い命を懸命に生きているというのに、自分がいま過ごすこの時間は、必死に生きていると言えるのだろうか、と。
 ゆっくりと流れる田舎の風景だからこそ、別の場所で生きる、自分と同じ歳の人がもっと貴重な体験をしているのではないかと思ってしまう。
 むしろ、この時間だけではなく、いつもの自分でさえ――。
「ごーめんね」
「わっ」
 と、其処まで考えを至らせたとき、突然、額に冷たい何かがあてられた。
 肩を震わせながら眼の焦点をあわせると、健悟がコップを両手に持って笑顔を浮かべている。
「もらっちったー。ほい、こっち蓮くんの」
「……」
 健悟は、お婆さんの荷物を運んだ御礼にと貰ったジュースを蓮へと渡し、突然居なくなってごめんねと謝罪しながら蓮の隣に座った。
 透き通るように赤い液体と水滴の下りたコップが、暑さの所為か酷く魅惑的なものに見え、蓮は一気に喉を潤わせた。
 カラン、氷がなったときに、隣から聞こえた言葉は。
「うんま!」
「、っ! ……っくりしたぁー……」
 気を抜いていただけに、予想外の大声に再び驚かされ、落とさないようにと両手で冷たいコップを握り締めた。
 そして、やけに煌々とした眼差しでコップを凝視する健悟に、蓮は首を傾げながら尋ねてみる。
「え……紫蘇(しそ)ジュース飲んだことないとか?」
「いやあるよ、あるけど、なんかちがうんだってこれ」
「手間隙掛けてくれてるからっすよ。あとで言ってあげてください、それ。ぜってー喜ぶ」
「はぁー……」
 感心するようにコップの赤を見る健悟を見て、蓮の表情に笑みが浮かんでしまうのも仕方ない。
 東京で美味しい物を沢山食べているだろうに、自分が日々飲んでいるようなものでこんなに喜ぶとは思わなかったからだ。
「気に入ったんなら家にもあるから持ってっていーっすよ、たくさんあるし」
「え、マジで?」
 本当に嬉しそうな顔をする健悟に、蓮は頷いて、残りのジュースを一気に飲み干した。
 ガリガリと氷を噛み砕きながら、先程の健悟を思い出す。
 挨拶をするにも荷物を持つにも、初対面だというのに其れを全く感じさせない朗らかな会話。長年暮らしている自分よりも愛想が良く、中身だけ見れば、こんな片田舎でも確かに上手く生きていけそうだと妙に納得してしまった。
 ふと、ふわりと舞った風と共に、健悟の匂いが雑じり蓮の鼻を擽った。
 それは、丁度、農作業をしている老夫婦を見ていただけに、あまりにも似つかわしくないものであり、思わず健悟を凝視してしまう。
「……」
 風に乗ってゆっくりと揺れる稲の音が蝉の音と共に耳に届く。
 がり、氷を噛み砕けば、その氷さえもが裏の川の天然水の味がする。
 天然と称された自分の匂いを嗅いでも何の感想も持てないが、健悟の言った「人工的」と云う意味だけは漸く理解することが出来た気がした。



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