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 れん、御飯は? 風呂は? 
 優しい声を脳内で反芻するだけで、胸はむかむかと悲鳴をあげていた。

「…………」
 普段床に就く時間になって、此処を開けてはくれないの、と一度だけ弱いノックがなされた時には、ぎゅっと爪先を折り曲げるだけに留めた。
 きっと客室に布団を敷いて寝たのだろう、最初からそうすべきだったのに。利佳の部屋に行くか客室に行くか、選択は二択が正しいはずだったのに、何故毎日こんな狭い場所で囲われていたのかも分からない。
 それでも、翌朝、この近距離で受信した「行って来ます」のメールにはいつもと変わらぬ絵文字と、いつもと違った「お大事に」との優しい言葉が乗せられて、不覚にも泣きそうになってしまった。
 なんでおまえがそんな事言うの。律儀にこんなことをする相手は利佳だけで良い筈なのに、と溜息を吐けばそれさえも蒸し暑いこの部屋の中に消えていく。
 漸く伸び伸びと脚も伸ばせるようになったベッド、煩い声が掛からなくなった部屋、静かな空間、これぞ望んでいた光景、満足すべき光景だ。それなのに何かが足りないような、嗅ぎたい香りが足りないような、もやもやとした何かが燻っていることは自分が一番知っている。
 テンションあがんね。だりい。めんどくせえ。考えんのもめんどくせぇ。あちい。
 朝一番に窓を開ける奴が消えた所為で、蒸し暑い室内に怒りさえ湧いてきた。この部屋の窓を開いて空気を入れ替える。カーテンを開けて光を差し込む。決めたことではないが、なんとなく彼の仕事のような気になっていた。夏の太陽を背に、オハヨウと明るい声が掛けられる朝が好きだった。早朝撮影ではないくせに、無駄に早起きをしてくれる彼の笑顔を見ることが好きだった。
「…………うぜっ」
 時計を見れば既に直角を差していて、利佳は既に出かけた頃合だろうと悟る。
 昨日の夜から何も食べていない腹は欲望に従順に音を奏で、蒸し暑い室内に更に苛立ちを募らせた。
 もう降りても利佳と健悟は居ないだろうか。昨日からあからさまに避け続けた二人を頭に浮かべると、仲睦まじく喧嘩している姿が易々と想像された。あんなに仲が良くて、昔からの知り合いで、挙句の果てに指輪が利佳のものだったなんて。
 いっそ笑える、と蓮が口角を上げて天井を睨んだその瞬間、コンコンと突然ノックの音がした。
「…………」
 第三者の出現に向け蓮の肩が強張るのも致し方無いことだ、警戒を保ったままに鍵の掛かったドアを睨むと、再度同じ音が繰り返される。
 狸寝入りに徹しようか手近のクッションを投げ付け様子を見ようかと画策してみるも、次の瞬間に扉をすり抜けてきた声音は、幼い頃から厭きるほど聞いていたものだった。
「れーんちゃん」
 もしかして寝てる? と扉越しに聴こえた声は優しく、昨日振り解いて来ただけに酷く罪悪感が募るものだ。
 その罪悪感を抱いたままにベッドを降りてゆっくりと扉に近付いていくと、足音を悟ったのかノックは自然と止んでいた。
 カチャリと鍵を開けると、その瞬間、ぽんと頭の上に掌の感触が振ってくる。
「……たけひと」
「なに。引き篭もってんだって? バカだねー。さっさと俺ん家来りゃー良いのに」
「別にんなことしてねぇよ、バカ」
「あーっそ」
 見下ろされる格好が嫌で、頭上に置かれた掌を振り払うと、武人は呆れたように溜息を吐いていた。
「随分簡単に開けてくれんだね、利佳が入れないって困ってたよ」
「本当に入りたかったら扉ぶっ壊す位のことすんだろ」
「病人かもしれねー奴相手に流石にしないって」
 ずかずかと遠慮なしに入って来る武人は、部屋を一督すると先程まで蓮が寝ていたベッドへと腰掛ける。
 そして、枕元で開きっぱなしの携帯と、昨日から出しっぱなしの漫画を見つけた後、ふっと唇の片端を吊り上げ意地悪く笑った。
「ま、病人ではないみたいだけど」
「……」
 ベッドに腰掛ける武人の下、床に胡坐を掻きながら気まずそうに眼を逸らした蓮を、武人は直視し続ける。
 そして。
「ははっ、なーに泣いてんのアンタ」
「泣いてねえ」
「あっそ、って、ちょっと。いたいって」
 蓮の目元に残る赤い縁とその腫れ具合を目敏く発見した武人が珍しさに笑うと、げしっと脛を蹴られてしまった。
 相変わらず素直さの欠片も無い蓮の様子に溜息を吐いてから、持ってきたファイルをそのまま蓮へと差し出す。
「はいコレ」
「あ?」
 眉間に皺を寄せた顔で凄まれても、十七年間見てきた顔に今更恐怖が募るはずも無く、恐れぬままにずいっと無理矢理ファイルを渡した。
 仕方無しに蓮が受け取ったクリアファイルに入っていたのは通信簿や学級便りなど、昨日蓮が早退してからの配布物のようだった。
「…………」
「もーシバセンガン切れね。今日学校来いってさ」
「……はあ? 夏休みだろ今日から」
「なんだっけ、映画の撮影やってっからって臨時の見張りで何人か借り出されてるみたいだよ。今日はシバセンね。ついでに蓮ちゃんのおせっきょー」
「やだ」
「ばか」
「ああ?」
「やだじゃないの、折角持って来てやったんだから言う事聞きなよ」
「頼んでねえ」
 ぷい、と顔を逸らすと、胡坐を掻いていた膝に些細な感触が走った。
「気分転換しよう、っつってんの」
 こつん、蓮の膝を踵で軽く押してきた武人の表情はいつものように明朗なものではなかった。細まった目元からは辛辣な何かを感じ、厭味さえもが一瞬逆流してしまったほどだ。
 何かを悟って居るらしい幼馴染の雰囲気が普段とは以って否なるもので、何か言いたいらしいことは空気で分かる。
「……ばーか」
「ハイハイ」
 だから、手を引かれるままに階段を降りて行くことを許諾した。
 あれだけ危惧していた居間は誰の気配も無く、布団に入っていた己を思うとただただ滑稽でしかない。
「…………」
 そしていまこのとき、一つ確信した事がある。
 至極当然なことだ。
 武人に、同じ男に手首を掴まれていても、やっぱり何も感じない。至って普通。当たり前だ。たかが同じ性のヤローに触られたからって、一々何の感情に振り回される事も無い。健悟に出逢わなければ、いまこうして武人に手を引かれている事実すら気に留めることもしていなかったに違いない。
 なのになんであいつにだけ、あんなに反応するんだろう。へんなの。どこの器官が反応してんだべ。どこがどーなってあんな苦しくなんの。
 ドキドキだとか気持ち悪い造語を言いたくもないけれど、本当にその通りでしか無い。あー気持ちわりい。マジキモイおれ。
 俺が健悟を好きなんて、そんなの気持ち悪いだろ。きめーよ。
 健悟だってきっと、そう思う。



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あきゅろす。
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