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「……やらかした」
 あと数時間で終業式だったというのに勢いで飛び出してしまった学校に反省しつつ、冷静になってみれば、登校してすぐ帰って来るなんてと怒号が乱れ飛びそうだと蓮は玄関先で立ち竦んでいた。
 睦はパートに、利佳は大学に行っていることを願いながら、こっそりと扉を開ける。からからから、といつもよりも静かな音を奏でる隙間から片目だけで覗き込むと、障子の開いた先には慌しかった朝が嘘のように居間の落ち着きを取り戻しているようだった。
 誰も居ない我家に安心しながらこっそりとローファーを脱いで、中に入っていく。
「……たーだいまー……」
 掠れた声で呟いても物音がしない家に安堵した後、こうしたふとした瞬間にも嫌な事を思い出させてくれるクラスメイトに小さく舌打ちをして、居間を抜ける――と。
「―――で―――から」
「……え?」
 予想だにしない人声が聞こえて、蓮は其方に姿を現す寸前で蓮は立ち止まった。こっそりと襖を開けて覗き込めば、声はキッチンの奥から聞こえる。睦、利佳、それに健悟。まだ仕事に行っていなかったのか、というよりもこれから行こうと御飯を食べているところだったのだろうか。どちらにしろ先程話題に出た張本人の登場に、聞けるはずも無い質問が頭に浮かんでくる。
 利佳が好きなのかと訊けばきっと、気持ち悪いこと言うなと笑って殴ってくるだろう。
 なんで此処に居るんだと訊けば、メシが上手いからだと流される。もしくは、俺が居るからだと、からかい混じりに笑うのだろう。まるで口説かれているような台詞を貰っていたことに今更気付いても仕方が無い、よくもまぁ平常心でいられたものだとあのときの自分を讃えることしかできないのだから。
 でも、なんで俺と居てくれるんだなんて、俺と一緒に居て楽しいのかなんて、そんなこと、訊ける筈がないだろう。健悟の周りに居る不特定多数の人物と比べられれば、所詮形無しだなんて今に始まったことではない。
「くっだらねぇ……」
 こんなことで悩んで何になるっていうんだ。利点も何も生まない思考回路に見切りを付け、足音も立てずにキッチンへと近付いて行く。気配を消しながら、しゃがんで通ればきっと見えないだろうと算段し、忘れた頃にでも起きてこようと、その前を通り過ぎようとした。
 しかし。


「すきだ」


 ―――……は?

 中から聴こえた衝撃に、蓮の脚は前進する事すら忘れてしまった。
 ピタリと固まった蓮の耳に届いた爆弾は、確かに聴こえた男の声で、「すきだ」と紡ぐ台詞だった。
 隙、数寄、梳き……?
 無理矢理と色々な漢字変換を脳内で繰り広げるも、再生される音は、いつか電話で聴いたあの声音。中から漏れるのは確かに、何時かは自分にも向けられたことのある、健悟独特の甘美な空気を孕んでいた。察するに変換などするまでも無く、つまりは「好き」以外の何者でも無いということだ。
 うるさい。心臓が煩い。足音以前に、この心臓の音でバレそうなほどだ。キッチンと廊下を隔てる扉の前までは辛うじて進んで居た蓮は、漂う空気が一瞬にして変わってしまった場所を、弾けてしまいそうな心音を抱えながら覗き込んだ。
 中に居るのは三人だけだ。蓮が座る位置から見えるのは健悟の広い背中で、そこに隠れるように利佳と睦が鎮座している。
 その神妙な空気の所為か、無神経にも「“真嶋健悟”は利佳を好き」だとふざけて言っていたクラスメイトの顔が頭に浮かんだ。聴かないほうが良いのかもしれない。盗み聞きはいけないと思いつつも、状況が状況なだけに関係ないと、好奇心だけで耳を傾けてしまった。
 たかが好奇心、それだけだ、だからこそ、これから与えられる衝撃なんてものは微塵も予測は疎か、覚悟すら出来ていなかった。
 ――……いや、待てよ。まさか……。
 すっかり閑散としてしまった中の空気を払拭すべく、蓮は今にも震えそうな拳を握り締めながら中を覗き込む。
 ――台本、台本……。
 いつかの旅館を思い出し、この空気すら“真嶋健悟”の創り上げた読み合わせかもしれないと疑いながら健悟の座る机の周りを探ってみる。しかし、朝食を食べ終えたのであろう机上はすっかり片付けられていて、残っているのは鎮座する三人の真剣な面持ちのみだった。
 いつもは憎たらしそうに笑む利佳でさえ口角を上げる事はせず、じっと健悟を見据えたままだ。
 静かな場所はいつだって蓮の好む場所であった筈なのに、この時ばかりは煩さだけを切望する自分が居た。余りにも穏やかな其処からは戯けすら伝わる事無く、弛まぬ線を張った空気が此方まで伝わってくるようだった。
 こんな空気、知らない。
 広い背中がしゃんと伸び、きっちりとしたスーツに纏う空気は、話しかけられるような柔軟さすら持っていない。スウェットでへらりと笑う健悟とは到底遠い空気を実感した蓮が、堅い空気に中てられゴクリと息を飲んだ、次の瞬間。
「……分かってんでしょ、充分」
 口を開いたのは、健悟だった。
 ぽつり、健悟が利佳に話し掛けて、返答を待っている。
「ほんとにさ、何年経ってもずっと変わらねぇんだもん。こっちが困るって。……好きだよ、スゲェすき」
「ッ、」
 懇願するように囁かれた台詞は語尾すら至極蕩けるような匂いがした。
 忘れもしない、羽生の家で電話元で聴いた甘い声、ふとした時に自分に囁かれていた筈の、あの声がする。締まりの無い声を知っているのは自分だけでは無いことに、蓮は口元を押さえ息を潜めることしかできなかった。
 あの腰に響く声に「好き」という率直な言葉が乗せられたのを、初めて聴いた。
 当然だ、当然のことなのに、忘れていた。健悟の好きな相手が自分ではないことなど明白で、その台詞を告げるべき相手が他に居るべき事は分かっていた。
 けれど、でも、今この状況は。
 一体なにがどうなっているのだろう。台本もない、健悟から創られた気配も無い、演技でもなければ、これは、他でも無い「事実」ということなのだろうか。



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