……ようやく、船曳さんの魔の手から解放された。船曳さんの明日の名誉のために唇を死守した俺は、とても偉いと思う。
野中さんのことは今日からメシアと呼ぶことにしよう、と考えつつ、俺はトイレに向かった。
あんまり飲んでないつもりだったが、船曳さんに絡まれている間に結構飲んでいたらしく、足元が覚束ない。まったく、無駄なドキドキと精神的疲労を与えられたぜ……。
俺たちのいる階のトイレが悲惨なことになっていたので、ひとつ下の階まで足を運ぶ。宴会が終わった後なのか、この階に人の気配は殆どない。
しかし、トイレのドアを開けると。
「あれ、おやまだ……」
誰もいないと思ったそこには、小山田がいた。
小山田は俺が話しかけても顔を上げず、洗面台に両手をついて俯いている。おお、飲み過ぎてんのか……。
「どした小山田。飲み過ぎた? 気分悪い?」
「……いや、そうじゃない」
そう言いながらも小山田は顔を上げない。酔っぱらいは得てして大丈夫とほざくもんだから、信用ならない。俺はとにかく背中でもさすってやろうと小山田に近づいた。
ゆっくり手を伸ばし、背中をさすろうとした、その時だ。
小山田がぽつりと呟いた。
「来なきゃよかった」
「え、ど、どうした」
「マチは、どうして俺を連れて来たの」
「……へ?」
小山田は俯いたままで、どんな顔をしてるのかもわからない。
俺は小山田の発言の意図が全然分からず、混乱する。
どうしてって。来なきゃよかったって。
何があった。俺が見てないところで、何か、小山田を不愉快にする何かが起きたんだろうか。
分からない。全然、分からない。
「……来なきゃよかった」
もう一度呟いて、顔を上げた小山田と、鏡越しに目が合った。
「……っ」
俺をじっと見つめているのはいつもの小山田とは全然違う、睨むような目で。
俺は、怖かった。
ただ、ただ、小山田の目が怖くて。
「マチ、さぁ。なんで……あの、」
「……」
「ああ……ダメだ、違う。俺、何言ってんだろ。ごめんね。……俺、帰るわ」
小山田はそう言ったっきり、俺を見もせずに出て行った。
引き止めることも何もできず、俺は壁まで後ずさって、ズルズルとしゃがみこんでしまった。立ってなんか、いられなかった。
俺はこの時、初めて人を恐ろしく思ったのだ。しかも、友人である小山田を。
そのことが、また怖くて。
小山田のあの目は、何を意味していたのか。
俺は、小山田の気に障ることを、何かしでかしたんだろうか。
「……わっかんねぇよ」
アルコールのせいだろうか、ゆらゆらと視界が揺れる。
俺は目を閉じて、しばらくその場にうずくまっていた。