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伊南光太郎は二人いる
8
 一晩悩んだ末に、俺は講義を休んで大学から二駅離れた駅の近くにある心療内科へ足を運んだ。
 伊南が二人いるという現象がドッキリなどでは説明できなくなった今、自分の正常さを疑うより他になかった。
「恐らく強いストレスが原因でしょうねぇ」
 中年の医師は、俺の話を一通り聞いた後、ゆったりとした口調で言った。予想していた通りの言葉だ。
「ストレスって例えばどういう?」
 思い当たることがなかった。もちろん日々にストレスがないわけではないが、精神に異常をきたすほどではない。むしろ今の最大のストレスは、伊南が二人いて、さらにその一人が自分の恋人を名乗っていることだ。症状がストレスの原因だなんて、因果がまるで逆だ。
「詳しくは僕は君じゃないから分からないけど、君は彼女に何らかのストレスを感じていたのでしょう。それが許容範囲を超えて、自己防衛のために君の脳が彼女を知覚しなくなった。いや、正しくは彼女を君の知人である伊南という青年に置き換えて知覚するようになったのでしょうねぇ」
 医師の他人事と言った風なのんびりとした口調で説明した。
「でもなんで伊南なんですか? 正直、全然伊南とは仲良くないし、会話も滅多に交わさないし……」
「さぁ、それは分かりませんが、彼と彼女に何らかの共通点を感じていたのかもしれませんね」
 曖昧な返答に苛立ちつつ俺は確認した。
「じゃあ俺の家にいる伊南は、伊南に見えるだけで本当は俺の彼女なんですね」
「そうです」
 ここで初めて医師は断定的に言った。その声はもうこれ以上どう説明も仕様がないというような冷たい響きを持っていた。俺は膝の上で拳を握った。
「そうですか……。でも、これって薬を飲んだりすれば治るんですよね?」
 縋るように見詰めた視線は、するりとかわされた。
「いや、残念ながら精神的なものに、すぐ効果のある薬はない。薬でできることは症状の軽減ぐらいで完治させることは到底できない。君の場合、ストレスの原因を探っていく必要があるね。そのために、心理士のカウンセリングもあって……」
 医師は今後の治療について、丁寧に説明してくれた。それは気が遠くなりそうなほどに。
 事実、俺は途中から医師の話が耳に入っていなかった。すぐにこの状態をどうにかしてほしくて病院まで来たというのに、その原因や治療法はあまりに漠然としたもので、ただ唖然とした。そもそも原因すら分かっていない状況で治療を進めるなど、底なし沼に手を突っ込んで探し物をするかのような無謀さと無意味さしか感じない。
 一応、次回受診の予約はしたが、恐らく行くことはないだろう。
 病院を出て駅まで歩いていると、カップルたちと何度かすれ違った。あるカップルは男の腕に女がべったりと絡みつき、あるカップルは女の買い物袋を男が両手いっぱいに提げている。彼らの纏う雰囲気はそれぞれみな違ったが、恋人に違和感を持っているような者は誰ひとりとしていなかった。恋人を恋人として映すその瞳は、相手への愛情に溢れていた。
 そんな瞳を見ていると、悪意とも妬みともつかない黒い感情に衝き動かされ、彼らの耳元にそっと囁きたくなるのだった。
 本当にその人はあなたの恋人ですか、と。

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