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伊南光太郎は二人いる
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 酔った。酔った。したたか酔った。
 熱燗がいけなかった。あの強い酒気を帯びた蒸気は、鼻から最短距離で脳に至る。脳をぐちゃぐちゃに荒らして去って行った酔いの置き土産である頭痛に顔を顰めながら俺はゆっくりと目を開けた。
 俺を見下ろすのは、未だ天井に残る去年のクリスマスに暴走したシャンパンのコルクの弾痕。朝一番に視界に入る見慣れた光景だ。なのに、なぜか何かが違うと感じてしまうのは、やっぱり酔いの後遺症だろうか。
 昨日は、地域文化研究サークルの新歓の飲み会だった。大層な名前のサークルだが、実際はフィールドワークと称して県内各地を遊び回っているだけのお遊びサークルだ。そんないいかげんなサークルなので、集まる人間も当然いいかげんな奴ばかりで、酒の席となれば加減も分からず飲みまくってしまうのだ。
 乾杯をして、新入生の緊張を解きほぐすために酒を交えながら、出身地や学部など無難な話題で談笑したところまでは憶えている。だが、それ以降は憶えていない。正確に言えば記憶があるところとないところの境界さえ曖昧だ。
 居酒屋にいたはずなのに、気付けば家のベッドに寝ているのだから、何かが違うと感じても仕方のないことだ。そんな酒でふやけた頭の些細な違和感よりも、今俺がどうにかしないといけないのは、この強烈な頭痛だ。
 枕元の時計を見る。時間は九時過ぎ。二限目の授業に十分に間に合う時間だ。けれど行きたくない。だが、この講義は必修な上、教授が病欠しか認めないという厳しいじぃさんなので、近い将来を考えれば当然行かなければならない。
 嫌だ、行かなきゃ、嫌だ、行かなきゃ、嫌だ、行かなきゃ……。泥のように重い葛藤をくぐりぬけ、ようやく俺は上半身を起こした。
 布団が肌蹴、直に触れる空気の冷たさに、俺は自分が全裸だとようやく気付いた。
 あー、やってしまった。俺は重い溜め息を吐いた。俺は酔うと人肌恋しくなってしまう人間なようで、記憶のないまま彼女を押し倒してしまうことが多々ある。一年半同棲しているので彼女も慣れてはいるようだが、酔っている時の俺は彼女への気遣いが皆無らしく、些か乱暴なその行為にいつも立腹している。
 酔いがさめた正常な状態で、記憶にないことをネチネチと責め立てられるのはあまり気持ちのいいことではないが、自分に非があるので反論もできない。
 ベッドの横に視線を落とせば、彼女がこちらに背を向けて寝ている。首筋や背中に、散らばるキスマークの中に、浅い歯型も混じっている。
 あー、もうこれは小言決定だ。ただでさえ二日酔いで頭が痛いのに、これに刺々しい小言が加わるのかと思うとさらに頭が痛くなる。
 本当は彼女に気付かれないようさっさと学校に逃げてしまいたいが、狭い部屋の中だ。身支度の物音に彼女は目を覚ますに違いない。そして謝罪もなく逃げ出すように身支度をしている俺を睨みつけ、昨夜の粗相を嫌みたっぷりに非難するのだ。
 俺は最悪の事態を避けるため、ベッドに再びもぐった。ベッドの中の粗相は、ベッドの中で尻ぬぐいするに限る。布団の中は、まだ情事の後の甘さに満ちている。これを使わない手はない。
 彼女の体を背中からぎゅっと抱きしめ、耳元に甘い言葉と謝罪を注ぎ込む。それらの言葉と布団の中に残る情事の名残が彼女の怒りを幾分和らげることは既に実証済だ。だから大丈夫。
 舌の上に形だけは立派な謝罪と愛の言葉を準備して、彼女の体に抱きついた。
 しかし、腕の中に収まる感触に、舌の上に準備していた言葉は困惑の声にどこかに飛んで行ってしまった。
「え? え? え?」
 腕の中に抱き込んだ体は、女の体らしくない硬さだった。胸や二の腕など触れるだけで肌に溶け入るような柔らかさがまるでない。皮膚の下の骨がはっきりと輪郭を持った薄い体。これではまるで……――。
「……ん」
 男みたいだ、と思った矢先、腕の中から女のものとは思えない低くかすれた声が漏れた。
驚いて思わず抱きついた体から離れる。男は眠気の絡んだ声を零しながら、ゆっくりと上半身を起こした。そしてこちらを振り返った。
「あ……」
 俺を見下ろす眠たげな一重の瞳に、遅れて男の名前を思い出す。
 伊南光太郎。同じサークルに所属する同学年の地味な男だ。伊南はお遊びサークルの主旨にある意味逆らい、ある意味従順に、フィールドワークと称して遊んでいる俺達をよそに、行った先々の地域の文化を研究する、真面目でそれ故にその場の空気を白けさせる所謂空気の読めない奴だった。なので彼との関係はもちろん友人なんて呼べるものではなく、知人と呼ぶことさえ憚られるような、浅く冷淡なものだった。そんな彼と全裸でベッドに寝ているのだから混乱はさらに深まるばかりだった。
 伊南がなぜ俺の部屋に……。飲み会に来ていたかは憶えていないが、真面目な彼は必ずこういった集まりに参加している。だが、昨日の飲み会で伊南と話した記憶はもちろんないし、酔いで記憶はなくなっても、伊南のような酔いさえも醒ましてしまうほどのノリの悪い男に絡むなど絶対しない自信がある。
 にも関わらず、しかし伊南は俺の横にいる。しかも恋人のような距離感でだ。
 まさか、人肌恋しさあまりに男に手を出してしまったのか、と顔からサァと血の気が引く。
「おはよう」
 無表情のまま淡々と挨拶する伊南に、酔いの勢いで体の関係を持ってしまった気まずさや気恥ずかしさは微塵も感じられない。
「あ、えっと、おはよう」
 舌がもつれながらも何とか挨拶を返した。本当は、なぜここにいるのかその経緯や、体の関係を持ってしまったのかという確認などもっと訊くべきことがたくさんあったが、言葉にできたのはオウム返しのような挨拶だけだった。
「北川、今日は確か二限から授業だったね。今から準備すれば間に合うよ」
「あ、ああ、そうだな」
「俺が朝ご飯作っとくから、北川は身支度しなよ」
 淀みなくそう言うと伊南は困惑でまごつく俺を置いてベッドから出た。そして床に落ちた服を着て、勝手知ったる様子で冷蔵庫を開けて中を探り始めた。
 唖然とその姿を見ていたが、伊南に「北川、そろそろ準備しないと講義に間に合わないよ」と言われ、俺は逃げるようにして風呂場へ向かった。汚れをというより、頭の中の混乱を洗い流すようにシャワーを浴び、服に着替える。
 まだ俺は酔っているのかもしれない。だから寝起きに変な夢と現実がぐちゃぐちゃに混ざっただけで、居間に戻ればきっと彼女がいるはずだ。
 そう自分に言い聞かせ居間に戻ったが、俺を迎えたのは、みそ汁とごはんと鮭というあたたかな朝食と、悪夢の延長を告げる伊南の存在だった。
 朝食をとっている時も、伊南の様子は普通だった。いや、正直に言えば伊南とあまり関わったことがないので彼の普通がどのようなものなのかは知らないが、少なくとも酔った勢いで、しかも男同士で体の関係を持ってしまった人間の様子ではない。テレビを観ながら「今日は洗濯日和みたいだ」とか「悲しいニュースだなぁ」と俺に向けての言葉なのか、独り言なのかよく分からない言葉を漏らしながら、伊南は食事を口に運んだ。
「じゃあ、いってらっしゃい。車に気をつけて」
 伊南に見送られ、俺は部屋を出た。アパートの階段を降りた所で、俺は自分の部屋を振り返った。
 いや、待て、なぜ伊南に見送られなきゃならないんだ! 第一鍵はどうするんだ! 伊南が俺の家の鍵を持っているわけがないし……。もう一度部屋に戻ろうとしたが、説明のつかないあの状況とまた対峙するのかと思うと、今まで激しい混乱に影が薄くなっていた頭痛が再び存在を誇示し始めたので、俺は臭いものには蓋をする要領でそのまま学校に向かった。
 足早に歩きながら、その歩調以上の速さで頭の中では混乱した思考が加速する。なぜ伊南なんかと寝てしまったのか。俺は確かに酔うと人肌恋しくなるが、しかしそれは彼女にだけであって、今まで一度だって酔った勢いで他の女の子と関係を持ったことなんてない。それについては自負していたのに、まさかこんな形で彼女を裏切ることになろうとは……。
 彼女に申し訳ない気持ちが限界量を超えた瞬間、俺は恐るべき事実に気付いた。
 
 俺は、彼女を知らない。名前どころか顔だって思い出せない。いや、思い出せないのではない。そもそも俺の頭の中に彼女の存在がないのだ。同棲中の彼女がいるという記憶はあるにも関わらずだ。
 どこからか吹いてきた菜の花をの香りをのせた生ぬるい春風が俺の横を通り過ぎて行った。


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