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誰も人が寄りつかなくなった無人廃工場の密集地帯。
金網・有刺鉄線のフェンスに、膨大な廃棄物が周囲を覆う廃墟のその一角から一人の人間が忽然と姿を現した。
それは血まみれの青年だった。
髪も瞳もその纏った血に染まったかのように赤い青年は、たどたどしく工場の壁を支えにしながら緩慢に前進してゆく。
体は小刻みに震え、怯えきった眼をしている青年は必死にその場から離れ、逃げようとしていた。
今にも泣き崩れそうな青年の表情にはそれとは別に、混乱と恐怖が色濃く刻まれている。
何だ? 怖い? 何故?
その理由すら当人である青年には分からない。
不意に自らの流した血に足を取られ、青年の弱った体は為す術もなく地へと倒れ伏す。
なんとか再び立ち上がろうとするが、大地へと淀み広がってゆく液体の上に再び屈伏する。
誰なんだ? 俺は? 何故? 何で?
ひどく混乱する思考、そして青年の脳裏に突き出された銃口が唐突に鮮明によぎった。
瞬間に青年は固く瞼を閉じ、頭を抱え、勢いよく地面に突っ伏す。
衰弱した体は更に震え続け、血だまりに身を浸す。
青年の脳裏には、無数の情報・記憶が噴き出したかのように容赦なく叩きつけられてゆく。
脳内でその見覚えのない情報・記憶がフラッシュバックする度に、青年の口からは短い苦鳴が零れ落ち、頭を割られるような苦痛に苦悶する。
嫌……だ……やめ……ろ……
内側から破壊されてゆくような痛苦の中──やがて青年は一切の抵抗をやめた。
完全に倒れ付した青年の脳内には、鋭利な言葉の嵐が吹き荒れる。
『失敗だ。失望したよ』
『最悪だな、我等が純血に汚物が加わるとは……見るに堪えん』
『存在すべきではない、してはならない』
『忘却せよ、滅せ。無意味以外、これ以上になき産物だ。要らぬ』
覚えのない、だが確かに知っているそれぞれの声音。
矛盾した曖昧な記憶の中、青年の瞳に映る反転した赤い世界が徐々に閉じられていった。
そして、闇の中に青年は閉じ込められた。
青年が意識を取り戻すと、そこは白一色の世界だった。
……ここは。
明るい白色の中で青年は僅かに身じろきしてみる。
真っ白か……そうか、もう何も見えないのか。見なくてもいいんだな。
何処までも無限に眼前を広がる白に、青年は安堵したかのように微かな吐息をついた。
そして辺りを不思議そうに見回してみる。
……なんの音もしないな。ここには俺だけか?
白い空間──その中で青年は不思議な浮遊感に囚われていた。
それに何故だかは分からないが、この場所は疲弊しきった青年自身を幾分か穏やかにし落ち着かせた。
一体何なんだ? ここは……いや、ここが何処だろうと何だろうと、俺にはどうだっていいのか。
無音・純白の広遠な空間を、青年は茫然と見つめた。
その紅の瞳には一抹の翳りが窺えた。
俺は……結局何だったのか。
どこか寂しげで自嘲的な笑みを浮かべた青年の前方で、唐突に闇が生まれた。
突然の事態に驚き、顔を強ばらせる青年の視線の先の黒点は急速に広がる一方だ。
瞬く間に白を浸食しつくした黒が青年の居た空間を支配した。
……暗黒となった空間内で、最初に黒点が生まれた場所に何かが居た。
青年がよく目を凝らし見ると、うっすらと闇にぼやけた輪郭からどうやら人影ではあるらしい事に気付く。
青年は警戒しながらも、いきなり闇と共に現れた人物に声をかけようとし絶句した。
──青年は瞬時に理解したのだ。
その存在の意味を。
その存在の重さを。
それが自分にとって世界の全てだった事を。
闇の中の人物は、その腕に何かを大事そうに抱えていた。
そして、その人物が言葉を紡ぐ。
『私には、貴方が必要よ』
抱えた何かにそう呟き、闇に姿を隠したその人は不意に青年へと優しく微笑んだ。
瞬間、青年を襲ったのは郷愁と悲哀。そして一片の違和感。
懐かしくどこか愛しく思えても、青年には分からなかった。
それが一体誰なのか。
自分にとって何なのか。
混濁した記憶は知っていると青年自身に告げるが、彼本人にはまるで初めて逢ったかのように感じられた。
俺の記憶はこの人を知っている……だが、俺自身はこの人の事を全く知らない。
矛盾した脳内で、青年は漠然とそう思った。
そして愕然とする。
青年は自分に向けられた微笑みが、本当は自分ではなく別の誰かに向けられていた笑みである事に感づいたのだ。
そしてそれは残酷な真実だった。
青年の眼前の、闇の中の人物がもう一度青年を見つめ愛おしそうに笑いかけながら青年であって青年ではない誰かに呟く。
『私には、貴方が必要なの』
青年の重く潰されていた瞼が僅かに開いた。
虚ろな視界が次第に鮮明になり、やがてゆっくりと力強い眼光がその紅に宿り、その場にふらつきながらもしっかりと立ち上がった。
彼を今取り巻くのは闇でも光でもなく、自身が流した液体から帯びた血臭と周囲の異臭。そして有刺鉄線の網と廃棄物の群れ。
塵溜…………不用な……もの、か。
曇天。今にも泣き出しそうな空をしばらくの間、無言で睨み上げ、青年はぽつりと噛みつくように言った。
「……生きてやる」
廃墟の壁に背を預け、血達磨の青年は静かに独り誓った。
──俺は、生きてやる。例えそれが誰にも望まれなくても。
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