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冷気を含んだ外気が肌を撫でる。瞼を開くと、頭上の闇にはいつの間にか星空が広がっていた。とは言っても、斑に散る暗灰色の雲に妨害され朧気にしか見えなかったが。
ジェイナの唇が夜気の静寂を裂いて言葉を紡ぐ。
「まっ、仕方ないか」
苦笑する青年に、アイリは不思議そうに瞳を瞬かせた。
「断っておくけど、あいつは護衛向きじゃない。罪人は偏屈で扱い辛いよ、無愛想だし。それでも、それなりに少しは頼りになるかな」
「え……それじゃ」
ジェイナの言葉にアイリの表情が淡い期待と希望に輝く。
「申し訳ないけど君の依頼の受理を決めるのは俺じゃないんだ。だけど君を罪人に会わせるくらいなら出来るよ。困ってるコを見てて放って置けるほど俺は冷たい奴じゃないからね」
「ディルガさん」
ジェイナの気遣いを悟り、アイリは感謝の念を深く感じた。
頭を下げようとした少女を、ジェイナは片手で制す。
「ジェイナでいいよ。アイリちゃん。ルナから君への俺の紹介もあるみたいだし、俺でよければ君にできうる限り協力する」
「ありがとうございます!」
唐突にジェイナの手を強く握り締め、アイリは上下に激しく振りたくった。
呆気に取られたような表情のジェイナを見て、アイリの動きがピタリと止まる。
少女の顔には小さな失敗の色。
すぐさま手を引き、気まずそうに謝罪した後、はにかんだ。
「すいません、つい……嬉しくて」
自身の依頼を受けて貰えるかもしれない可能性を前に、喜びを抑えきれず笑顔を零す少女は眩しかった。
年相応の素直な彼女の反応にジェイナは益々好感が持てた。しかし問題もある。
懸念すべきは彼女が抱えている依頼の原因である人物と、相棒の罪人本人だ。
アイリは自身が狙われる理由を分らないと言っていたが、彼女からもう少し情報を詳しく引き出さなければこちらもそちらに対する最善の措置が取れない。
そして罪人、ブラッドだが果たして少女の依頼を本当に受けるかどうか……
だが、ジェイナも偽善で少女を助ける訳でもない。
依頼料の請求は後払いでも確実に申請するつもりだし、ルナの知り合いである手前もあって、アイリを無下にはできない事もある為だ。
只のお人好しで世の中は渡っては行けない。
実際にジェイナが罪人の仕事の請負いはしても、実戦に立ち動くのはブラッドだ。
基本的にブラッドは容易な依頼は受け付けない。自らの命を懸けて戦う中身ばかりを好む好戦的な傭兵だ。
人間嫌いで挑発的な彼だが、その欠点を除けば意外に根は真面目でいい奴だという事をジェイナは知っている。
少なくとも上辺だけの打算的な他の傭兵等と罪人は全然違う。
ならばこちらもそれなりの敬意を払い、罪人に橋渡しする依頼を吟味し選択しなければならない。
それが彼に対するジェイナの礼儀のようなものだった。
不意に悪寒が走る。
同時にジェイナは弾かれたように壁面に身を寄せた。その時に一緒にアイリの手を引いている。
唐突なジェイナの行動に薄く驚くアイリには構わず、そのまま彼女を壁面と寄せた。
「静かに、隠れて」
少女に囁くように呟いて視線は遠方の路地先の街路から離さない。そこから微かに幾つかの靴音と話し声。僅かだが、途切れ途切れに聞き取れた内容は「見つからない」「居たか?」「罪人の方は……」という数人の音声。
辺りにはすっかり闇の帳が下りきっていたが、ジェイナの瞳は暗闇の人影の群をしっかりと捉えているようだった。
だが次の瞬間、その瞳が辛そうに閉じられた。
ッ、またか──
ジェイナの悪寒は鎮まらない。
喉奥が渇き干涸びてるような息苦しさ、そして何より耐え続けている事への衝動の猛りが激しい。
顔面蒼白でそれでも自身の唇を噛み締めて堪える。抑える。
まだ駄目だ。自制心を最大限に必死に働かせ止める。
再び瞳を開いた時、青年の浅葱の瞳には苦痛と焦躁が配分されていた。
前方を警戒しているジェイナに、おずおずとアイリが遠慮がちに声を掛ける。青年の体調変化には気付かずに。
「……あの、お取り込み中でしたか?」
「うーん、ちょっと今込み入っててね」
声に疲労感は一切出さず、ジェイナは軽く応える。
だがそれでも、場の状況と青年の微細な緊張感を少女は鋭く察したようだ。怪訝そうに眉根を寄せていた。
ヤバいな、早くこの子と離れないと……
ジェイナの瞳は前方を注視したまま、脳内では別の事を思案する。そして瞬時に答えは導き出された。
ジェイナはアイリに振り返る。
「君さ、罪人に正式に依頼したいんだよね? ならこの路地を出た後、中央区の住宅街を抜けて西区の街外れに向かいなよ。そこに鉄扉の古びた建物がある。で、それ一応罪人の事務所兼自宅だから。多分、彼の方は、もうそこに帰ってる頃だと思うし」
唐突に告げられた罪人の居場所に、アイリは頭上に疑問符を浮かべたような表情で尋ね返す。
「あの、どういう事ですか?」
「本当はさ、一緒に罪人の所まで君を案内したかったんだけど……そこの怖いおじさん達の目当ては俺だからね。君が俺と一緒に居たら君に迷惑掛けるのは目に見えてる。だったら君一人でも罪人の元に先に行った方が効率がいいって事さ」
「でも」
憂色に包まれたアイリを見兼ねて、ジェイナは彼女を安堵させるように悪戯っぽく微笑んだ。
「大丈夫。もし断られたとしても俺も後で必ず行くし、罪人にその時は俺から上手く口添えするよ。だから安心して」
そう言い寄っても少女の曇った表情は晴れなかった。はてと、小首を傾げたジェイナにアイリの純真な声が届き愕然とさせられる。
「でも、ジェイナさんは大丈夫なんですか? その、具合の方は……頬だって、あの人達にやられたのでは……」
言いにくそうに言葉を濁すアイリに、ジェイナは優しげに瞳を細めた。
この少女は自身ではなく他人の身を案じているのだ。追われる身でありながら、出会ったばかりである赤の他人を配慮する。
そう理解できた時には、自分で思ったよりも柔らかい声が唇から零れていた。
「大丈夫、大丈夫。他人の事よりまずは君自身の方を心配をしなきゃ。そうだね……俺が先に出て彼等の注意を引くから。アイリちゃん、君はその隙にこの路地から抜け出るんだよ」
少女に有無を言わさず、次の瞬間にはジェイナは壁面の陰から飛び出していた。
「ジェイナさん!」
離した掌を引き止めようと少女が掴もうとした気配があったが、構わずに引き抜いていく。
「それに、今一番危険なのは俺の側に居る事だから──」
皮肉げに呟いた言葉は口内で残留し、少女には伝わらなかった。
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