雑談
月日は遡る──
二ヵ月前──あの突然の震災で被災したカディス・スブは、その後、何事もなかったかのように自営業に復帰していた。
右足の負傷、自店の全壊によって当分商売復帰の見込みは低く思われていたのだが、幸いにも彼が失ったのは彼が所持している店の一つ──支店の方だった。
足の傷は、出血の割には打撲・創傷ともに軽いもので、二、三日入院しただけで後は自宅療養となり、カディスは本店への移転を決めたのだ。
だが、本店といっても支店よりも立派という訳でもなかった。
しばらく本店の方は店を閉めていた為に店内全体は埃を被っていたし、老朽化した壁には所々に罅が入っている箇所が随分と見てとれた。
カディス自身も一度は建て直しを思案した事はあるが、何しろ利益の低い商売(カディスにとっては)である。
そうは言っても売れないバーなのだから仕方ないのだが、毎日の経営だけで精一杯でとてもじゃないが再建築まで手が回らなかったのだ。
長らくと放置していた本店──古色を帯びた店内におもむろに入ってきたカディスは、無造作にカウンターに放置されたグラスを手に取っていた。
埃を纏ったリキュールグラスに息を吹きかけ、胸ポケットから取り出したハンカチで拭ってやるとグラスには透徹した輝きが戻ってくる。
それを再びカウンターへと静かに戻し、カディスは不意に思い出していた。
外傷だらけの血に塗れた悽愴なあの姿。凄絶な光彩を放っていたあの銀瞳。
銀狼と呼ばれる男に初めて自分が出会ったのが、この店だった事に──
だが、その男は先日の震災で、瓦礫の中に大量の血痕と彼自身の武器を残し行方知れずとなっている。
死体が無ければ生きていると考えるのが普通妥当な考えだが、致死量を超えた血痕の量にカディスは一抹の不安を感じずにはいられなかった。
「ケル・デスパー……お前は、本当に死んだのか?」
無人の店内──カディスの切実な問い掛けに応える者は居なかった。
店の改装を終えたカディスは本来の職務に勤しんでいた。
今ではすっかり右足の傷も癒え、『アセンブル・プレイス』と新にオープンしたバーにも徐々に客足がつきつつあった。
銀狼が失踪してから──二ヵ月の月日が流れていた。
その日、いつものようにカディスが入念なグラスの手入れをしていると、小さな可愛らしい音色が聞こえた。
扉の呼び鈴の音でカディスは作業を進めていた手を休め、俯いていた顔を何気なく上げて絶句した。
眩しいほどの銀髪、清澄な銀瞳、思わず目を見張るような美貌の長身の男が扉の前には佇んでいる。
男はカディスの姿を見つけると不意にその美貌を綻ばせた。
「よう、前よりもボロくなったんじゃないのか?」
男は店内を見回し、軽い口調でカディスの方へと近付いてくる。
そしてそのまま、カディスの眼前のカウンターに腰を下ろした。
両目を見開き、開いた口が塞がりそうもないカディスに男は思わず苦笑する。
「そんな目で見るなって、幽霊じゃないぞ、多分」
屈託なく笑いかけてくる男に、文字通り穴が空くほど男を眺めていたカディスは一つ、生唾を飲み込んだ。
そして嗄れたような声を僅かに発す。
「お前──」
銀髪の男が怪訝そうにカディスを仰ぐ。
カディスは目前の男に、間違えようのない見覚えがあった。
その印象的な髪と瞳の色彩、秀麗な顔立ち。
その面立ちからは想像だにできないほどの大衆の血を浴び、限り無き罪を犯してきた男。
日々欠かす事なく、自分の店の扉を開いた殺し屋、ケル・デスパー。
カディスの驚愕の表情が変容し、次の瞬間には穏やかな表情へと取り代わっていた。
「──良かった、生きてた」
そんな安堵ともいえるカディスの独白に、ケルは声をたてて笑い出す。
「何だ、それ? 一応、心配でもしてくれてたのか」
「……まぁ一応、うちの一番のお得意さんだったからな。それにツケも支払って貰わず、勝手にしなれちゃこっちが困る。大損だ」
一応という単語を強調し、淡々と言葉を並べていくカディスに、ケルは微笑を顔に刻んだまま長嘆する。
「あ〜ァ、来なけりゃ良かったか?」
口ではそう言うものの、ケルはどこか嬉しそうだ。
カディスが休めていたグラス磨きの作業を再開させるのと、ケルがカウンターから身を乗り出してきたのはほぼ同時だった。
唐突に自分に近付いてきたケルに驚き、危くカディスはグラスを取り落としそうになる。
「なっ! 何だ?」
ケルの美貌は完璧すぎた。
その美貌は格好いいというよりは、女性的な美しさ・凛々しさを兼ね備えており、男だと意識していなければ女性として扱ってしまいそうなくらいである。
ケルには言ってはいないが、カディス自身も実際初めてケルと出会った時、その容貌で女と間違えた。
男だと気付いたのは傷の手当ての為、介抱した時だ。
男だと分かっていても、ケルの美貌に近付かれると落ち着かない。
何故だか凄く心臓に悪い。
……だがそれは、ケル・デスパーという存在が殺し屋でもあるからなのかもしれない。
……意外に小心だな。自分も。
カディスがそんな事を思案しているとも露知らず、ケルが身を乗り出したまま不敵な笑みを浮かべる。
「拾ってくれてるんだろ? 俺の相棒」
「ん?……! あぁ、勿論だ」
一瞬怪訝そうな顔をしたカディスだったが、ケルの意図が分かると店の奥へと引っ込んだ。
再び戻って来た時には、その手には幾重にも白布に包まれた何かを握っていた。
「これで間違いないんだろう?」
カディスが白布を丁寧に解いてゆき、中から露わになったのはニ対の鈍色の短剣だ。
シンプルなデザインで柄に施された装飾も殆どない。
年代ものなのか、二対の刀身に刻まれた文字は薄く消えかけている。
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