桜舞う
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祖父の家に引き取られて数週間、詠は隠れるようにして過ごした
マスコミが押しかけてきても屋敷の頑強なセキュリティの前ではTVをつけさえしなければ何も聞こえなく
それでもこの騒ぎの中パーティを開く祖父は心臓が強いのだと改めて認識させられた
やんごとなき家柄の人物とされた祖父を悪し様に言える人間は皆無だと
金で揉み消してくれたのを見て見ぬふりをして過ごした
そんな中でも気にかかるのは義孝や家族のことばかりで
会いたいけど会いたくない相反する気持ちに詠も疲れきっていた
気が重たいことほど早くやってきてしまうものなのだろう
祖父の会社の50周年パーティには祖父の趣味らしく私有地である野外で行われた
桜の花びらが舞う中で緋毛氈の敷かれた席では幕の内弁当が並べられ詠もその杯に酒をうけた
着苦しい正装は次第に崩れていきすでに席は無礼講となっていたので末座にいた詠も遠慮なくネクタイをゆるめて周りの話に当たり障りない相槌をうっていた
「うーん。せっかくの桜だ。誰か舞え」
祖父がそう言い出したのは宴もたけなわになってきた頃で酔い潰れて寝ているものが半数だった
舞えと言われれば女性を思い浮かべたが祖父が指名したのは意外にも義孝だった
「決して人前で躍るような腕では」
義孝は恐縮してみせたが祖父相手では分が悪かったらしい
結局押し切られて舞うことになった
能には色んな種類がありそのほとんどの主役が幽霊で己の人生を顧みる演目が多い
桜がはらはらと舞うなかでその演目は行われた
祖父たっての希望もあり急ごしらえされた演目は袴能と呼ばれる紋付きと袴だけで舞う能で囃子方も笛方と小鼓方しか用意されなかった
ゆっくりと義孝が脚を運び扇を翻す
蔓物と呼ばれる演目は遊女とそれに溺れた男の悲恋だった
例え死が二人を別とうとも
唄に合わせてだんっと力強く足を踏み出す義孝は本当に綺麗でさらさらと舞う花びらに合わせて舞っているように見えた
誰もが目を奪われる
ひらひらと地に伏す義孝に割れるような拍手が起こっても詠は我に返るどころか一層義孝を見つめ続けた
演目が終わり義孝がその綺麗な面をあげる
詠は息を飲んだ
義孝は薄い笑みを浮かべて詠を真っ直ぐに見た
手にしていた杯がからりと落ちる
熱く秘めたるように慈しむ視線で
「あとで」
薄い唇がゆるりと動く
詠は、嬉しくて恥ずかしくて涙が出そうだった
義孝を見るだけで世界は浮上したように輝いてみせる
閑散と客が帰っていく
きっと義孝は桜の下で待っていてくれる
「………石」
急に思い付いたのは義孝があの石を義孝の気持ちだと言ってくれたからだ
あの石を持って、もう一度ーー
そう思ったに過ぎない
早く、石を出して
その胸に飛び込むのだ
詠が息をきらせて屋敷に着いた時、使用人はすでに戻っていてなんだか慌ただしい空気だった
不思議に思いながらも部屋に戻った詠が目にしたのは信じられない光景で
空き巣が入ったかのように荒らされた部屋には鬼のような形相の髪を振り乱した祖父がいた
「…な…に、を…して?」
喉がカラカラに乾いた
未だかつてまなじりを下げていない祖父を見たことがあっただろうか
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