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小説
優しい瞳に潜む陰になんて誰も気付けない。


その日は思いの外授業が早く終わり、彼はこれからの有り余った時間をどう過ごすか考えていた。
帰宅するには早すぎるし、かと言って図書館に行って勉強する気分でもない。
しばらく悩んでから、彼は友達を何人か誘って遊びに行こうと思いつき、座っていた自分の席から立ち上がった。

―Pi.Pi.Pi...
その時、自分の携帯端末が鳴ったことに気付いた。
彼が端末を手に取ると、ディスプレイに表示された名前は、彼にとって愛しい存在。
彼は慌てて端末のボタンを押すと、映像通信モードを起動させた。

「は、はいっ、もしもし!?」
『どうした、そんなに慌てて。』
慌てていたのが画面の向こう側の人物にもわかったのか、クスクスと声をあげて笑われた。
「な、なんでもない。ただ、いきなり電話きたからびっくりして…。…で、どうしたの、刹那?何か用?」
画面の向こう側―褐色の肌に赤褐色の瞳、黒い髪が印象的なその男は、ああ、と頷いた。
『いや、お前の学校の近くまで来たから、なんとなく。…タイミング、悪かったか?』
「う、ううん、そんなことない!授業終わっちゃって、むしろ暇だったし。」
『そうか、よかった。…ああ、夕飯でもどうだ、奢るから。』
思いがけない食事の誘いに、彼は思わず固まった。

こう言うのも変かもしれないが、男であるはずの自分は、画面の向こうの男に好意を抱いている。
それは家族や友人に対するようなものではなくて、一人の人間としての好意。
20も歳の離れている自分を、彼がどう思っているかなんてわからないが、少なからずとも嫌われてはいない。
小さな頃から自分を可愛がってくれたひと。
最初はただ、やさしくてだいすきな両親の友人、というだけだったのに、それはいつからか変わった。
だから、今回の誘いもつい緊張してしまう。
相手はそう思っていなくても、自分にとってはこれはデートだ。

『…どうした?』
「うっ…ううん!何でもない!行く、絶対行く!」
男は、よかった、といって笑った。
『じゃあ、近くの喫茶店で待っている。』
「わかった。じゃあ、後でね、刹那。」

ぷつん、と通信が途切れて、彼は端末を右のポケットにしまった。
そして鞄から鏡を取り出して、乱れた髪を直す。
そんな自分がかなり女々しくて少し嫌悪感を抱いたが、もうすぐ会える大好きなひとのことを考えたらそんなこと全てどうでもよくなった。

「刹那…大好き。」

えへへと笑って鏡をしまう。
そして鞄を背負って教室を出ていった。



10月。
ニール・ディランディは、17歳の秋を迎えていた。


***


「せーつな。」

喫茶店の外にあるテラスで読者をしていた男の顔を覗き込むように、ニールは彼の名前を呼んだ。
刹那・F・セイエイは目を見開いて、ニールの顔をびっくりしたように見ていた。

「…どしたの?」
ニールが頭に疑問符を浮かべて刹那に言うと、刹那は急にハッとした。
「あ…、いや、なんでもない。…久しぶりだな、ニール。」
刹那が笑顔でニールにそう言ったので、ニールもへらっと笑った。
いま浮かんだ疑問符など、もうどこかへ吹き飛んだように。
ニールが刹那の向かいの椅子に座ると、刹那はニールが汗をかいていることに気付いた。
「なんでそんなに汗かいてるんだ?」
「…えっ…!…あ、いやー…。」
ニールが誤魔化すように吃ると、刹那がぷっと吹き出して笑った。
あの電話のあと、ニールはわき目もふらず校舎を飛び出して、数十m離れたこの喫茶店まで全力で走ってきたのだ。
それは1分1秒でも早く刹那に会いたかったからでもあり、1分1秒でも長く刹那と今日を過ごしたかったからだった。
「走ってきたのか、ここまで。」
汗で乱れたニールの髪を、刹那が指で弄ぶ。
だって、とニールが呟くと、刹那はよしよしと頭を撫でてくれた。

「夕飯…にはまだ早いし、少しブラつくか。」
ホットミルクを飲み干した刹那が席から立つと、続いてニールも立ち上がった。
まさか買い物も一緒できるなんて思わなかったから、予想もしなかったご褒美にニールは浮かれた。
刹那は赤いストールを巻き直すと、ウェイターに勘定を済ませ、荷物を持ってニールと共に店を出た。

「刹那、今日は飯食ったらすぐ帰っちゃうのか?」
刹那の隣を並んで歩きながらニールが言った。
刹那は見たところ身軽で、荷物と言ってもいつも仕事のときなどに持ち歩いている、財布と端末と自宅の鍵等が入ったメッセンジャーバッグだけであった。
「ああ、そのつもりだったんだが…。」
刹那がちらと横にいる青年を見れば、彼は少し落ち込んだような表情でそっか、と言った。
そんなニールに刹那は微笑みを浮かべて、またニールの頭を撫でた。
「アニューとライルがいいって言ったら、今夜の宿を頼もうか。」
優しい刹那の言葉に、落ち込んでいたニールはみるみる元気を取り戻した。
「マジでっ!?じゃ、じゃあ、母さんに電話する!」
急いで端末を取り出して自宅の電話番号を押すニールに、刹那はまたクスリと笑った。

愛しいニール。
自分が大切に育ててきたニール。
まるで我が子のような。
だが自分でわかっていた。
この気持ちは、『家族』に対するものではないと。
成長するにつれ背が伸びて、ニールはもう自分より背が高い。
父に瓜二つなその顔は、刹那が心から愛した男にも瓜二つだった。
声も、言動も、なにもかもが“彼”に見えてくる。
“彼”の面影を、いつもニールに重ねてしまう。
生まれ変わりだなんだと言われても、やはりニールは“彼”ではないというのに。
ニールを愛しいと思えば思うほど、罪の意識が刹那を襲う。
“彼”を、思い出してしまう。
―せーつな。
先ほどニールに呼ばれた時、一瞬“彼”かと錯覚した。
だって、自分を呼ぶ時のあの声によく似ていたから。
まだ子供だと思っていたのに、何時の間にこんなに大きくなったのだろう。

「刹那っ、母さんが大丈夫だって!」
端末を持ったままニールが言うと、刹那は今まで考えていたこと全てを吹き飛ばした。
わかった、と応えると、ニールは再び端末で母との会話に戻り、刹那と共に食事をしてから帰ることを伝えた。

「うん、わかった。じゃあね母さん。はいはい。」
「アニュー、何か言ってたか?」
端末をポケットにしまうニールに、刹那が聞いた。
「刹那によろしくって。あと迷惑かけちゃダメよって言われた。」
不服そうにニールが言うと、刹那は小さな声をあげて笑った。

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