9、さよなら

見上げた空は、あまりにも変わらない。世界は、やはり知らんぷりを決め込んだ。

取り残された私たちは、どうしたらいいの。




9、さよなら




とある山道を、一人の男が歩いていた。継ぎ接ぎだらけのみすぼらしい着物を身にまとい、ボサボサの頭のてっぺんに無造作に髷を結っている。一見すると物乞いか賊のようにも見えるが、背中に背負っている大きな木箱から、薬師か商人であるようにも思えた。

黙々と人通りのまったくない道を歩き続けていたその男は、ふと立ち止まると空を見上げ、スン、と空気の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。とたんにギュッと眉を寄せた。

山向こうの空は暑い雲に覆われ、風が運ぶ匂いは湿っている。間違いなく一雨来るだろう。

「まいったね…」と男は無精髭の生えた顎をさすった。箱の中身は濡れては困る物ばかりなのだ。

「…仕方ねーか」

ため息を一つ吐くと、山道から逸れ脇の林に入り込む。木々の下なら少しは雨をしのげるだろう。

普通の人ならば山賊や妖が出るため極力山の中を一人歩くのは避けるのだが、男は特に気にするそぶりもなく、慣れた様子でひょいひょいと草木をかき分け進んで行った。

やがて予想通りに雲が空を覆い、ポツポツと雨が降り始めた。しばらくは箱を気にしながらも歩き続けていたが、雨がとうとう本降りになってくると、さすがにこのまま進むのは厳しいか、と男は一際大きな木の下に駆け込む。葉の間から、どこまでも暗い空を見上げた。

「…ん?」

ふと、黒い影が視界をよぎった。

烏だ。それも、一羽や二羽ではない。激しい雨の中、何羽もの烏が黒い群れを作りながら同じ方向へと飛んでいく。その異様な光景に眉をひそめていると、突然赤子の泣き声のような甲高い咆哮が辺りを切り裂いた。続いて響く誰かの叫び声。

「こいつぁ…!」

男はハッとして目を見開く。背負っていた箱を木の根元に置くと、雨の中へ飛び出し駈け出した。













妖と対峙している間、山賊の時とは違って、私の意識ははっきりしていた。ただ、体だけが別人のように勝手に動く。

咆哮と共に、牙を剥き飛び掛かってきた妖を地に伏せるようにして避け、立ち上がりざまに逆手に持った短刀で下から斬り上げるように腹を裂く。

嫌だ、と思う暇もなかった。妖の甲高い悲鳴が上がり、生暖かい飛沫が全身に噴きつけた。

ドサッと地面に横倒しになった妖は、びくびくと四肢を引きつらせ血泡を吹くと、そのままぐったりと息絶える。

「…ぁ……」

――初めて奪った命は、あまりにもあっけないものだった。









どれくらい時間が経ったのかわからない。

がむしゃらに刀を振り回し続け、気づけば周りには妖の死体だけが転がっていた。

しかしおぞましいそれを見ても、全身に返り血を浴びた自分の体を見ても、もう何も思わなかった。思えなかった。固く握っていた短刀を手放すと、それは音もなく地面に転がる。イノを刺した刀だ。刀自身にも、それを使った私自身にも今さら激しい嫌悪感が込み上げて来て、目を逸らし空を見上げ、肩で大きく息をする。戦っているうちに離れてしまったのか、ヤイ達の姿はない。

ふ、と突然、糸が切れたように体が崩れ落ちた。泥の中に勢いよく顔を突っ込む。起き上がる気力もなかったが、そもそも体が動かなかった。理由はわかっている。少し走っただけで動けなくなるような私の体が、“青”の動きについていけるわけがなかったのだ。手足の感覚はなく、怪我をしているのかさえわからない。ただ、息をする度に喉が焼けるように痛んで、視界が歪んでいた。

泥に顔を浸したまま、私は唇を噛みしめた。

イノは、もっと痛かったはずだ。もっと苦しかったはずだ。

体が熱い。行き場のない感情がぐるぐると渦巻いている。奥底から燃えているようだ。

いっそ泣いてしまえれば、外に出してしまえればいいのだろう。けれど私は、何故か、どうしても泣くことができなかった。

その時突然、ガサガサと茂みを掻き分ける音がした。ヤイか、妖の生き残りか。もしも妖であれば、私は間違いなく死ぬだろう。

しかし霞む目を上げると、そこにいたのはヤイでも妖でもなく、一人の男だった。山賊のような身なりに警戒した体が起き上がろうとしたが、腕が少し動いただけだった。

男はまだこちらに気付いていないのか、目を見開きながら妖の死体を見渡している。そしてすぐに突っ伏していた私と目が合うと、ますます目を見開きバシャバシャと泥を跳ねさせながら駆け寄って来た。

「おいっ、大丈夫かあんた」

すぐ傍に屈みこみ、大きな手が肩に触れる。焦ったような表情から敵意は見えない。“青”もそう判断したのか、スッと強張っていた体の力が抜けていった。

大丈夫だ、と答えようとして口を開いた瞬間、喉が詰まり激しく咳込んだ。

息がうまく出来ない。吸おうとしても、吐こうとしても、熱い空気が詰まってしまう。

(私、どうやって息してたんだっけ――)

苦しくて、視界も思考もぼんやりとしてくる。

薄れていく意識の中、私は必死に手を動かして、林の向こうを指差した。おそらく、ヤイ達がいる所。あのままあそこにいたら危ない。いつまた妖が現れるか分からない。

――私は、ヤイの手を、振り払ってしまった。

「…?おい、」

伝わってるかわからない。だけど、どうか。どうか、彼らを。


(――助けて、)


声にならない声で、囁いた。


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