「――もう、平気?」

とんとん、と優しく背中を叩かれて、私は涙を拭いながら小さく頷く。

イノはずっと、泣きじゃくる私の背中を、何も言わずにさすっていてくれた。

私は最後に鼻を啜ってから、ありがとう、と掠れた声で呟く。

イノは、いいのよ、とまたあの猫みたいな顔で微笑んだ。

「じゃあ、楽にしていてね。今、何か食べる物を作ってくるから――」

「…神気くせぇな」

突然割って入ってきた声に、私もイノもギョッとして体を離した。見ると、あのボサボサが私の真横にしゃがみ込んで、くんくんとこちらの匂いを嗅いでいる。

――イノの弟の、ヤイだ。

ヤイは、ひくひくと小さな鼻を動かして、キュッと眉を寄せた。

「なぁ姉ちゃん、やっぱこいつ、神気くせぇよ」

(し…辛気臭いって…)

確かに大泣きしてしまったけれど、まさか面と向かってそんなことを言われるとは思わなかった私は固まってしまう。

一方イノは、何故か驚いた顔でヤイを見ていた。

「ヤイ、それ本当?」

「うん。人間の匂いがほとんどだけど、ちょおっとだけ神気くせぇ」

「そうなの…。何故かしら」

小さく首を傾げてこちらを見るイノに、私は目を瞬かせる。おかしな会話だ、と思った。何故辛気臭いことが不思議なのだろう。見ればわかるだろうに。

顔に出ていたのか、イノは笑ってヤイの頭を撫でながら言った。

「ヤイは、すごく鼻がいいから」

「……………」

…そういう、問題かな。

とりあえず、私は曖昧に頷いておいた。

「透を一番最初に見つけたのも、ヤイなのよ。私達は滝から少し離れた所にいたんだけど、ヤイがあなたの匂いに気付いて見つけたの。この鼻がなかったら、助けられなかったかもしれないわ」

そう続いたイノの言葉に驚いて、ヤイを見る。

イノと同じ琥珀色の瞳が、じっと私を見上げていた。あまりに真直ぐなそれに、思わずたじろぐ。それでも、私は目を逸らさずに彼を見た。

「…ありがとう。助けて、くれて」

すると、ヤイは赤い顔をさらに赤くして、それから、へへっと小さく笑った。

「イノ…さんも、本当にありがとう。私、なんて言ったらいいか…」

「あら、さんだなんて初めて言われちゃった。いいわよ、イノで」

イノが言うと、ヤイも身を乗り出す。

「なぁ、おれも!ヤイって言って!」



「――イノ、ヤイ。本当に、ありがとう」



心からそう言うと、二人はそっくりな顔で、嬉しそうに笑った。














ぼんやりと、見慣れない天井を仰ぐ。

あれからイノはお粥を作ってくれて、それを食べ終わると、もう少し寝ていなさいと言われた。相変わらずジロジロと私を見つめ続けていたヤイを引きずって行ってしまい、部屋に一人きりになる。

私は、ほうっと小さく息を吐いた。

飢えていなくて、いつの間にか着替えさせて貰っていた着物は清潔で、私は今家の中にいて、布団に横になっている。

そんな少し前まで当たり前だったことが、どうしようもなくありがたかった。

(…それにしても)

ふ、と考える。

自分は妖だ、とイノははっきり言っていた。

人と同じように話し生活している彼女達と、あの人間を襲う恐ろしい妖達。妖の中にも、いろいろなものがいるのだろうか。この世界は、よく、わからない。

私は何故この世界に来てしまったのか、とか、あの……夢の中の二つの"声"は、なんなのかとか。

わからないことは増える一方だし、いまだに一つも解決していない。

「――…」

左手を、天井に向かって伸ばしてみる。妖に襲われた時に強く噛んだ親指の付け根は鬱血していて、イノが細く裂いた麻布を巻いてくれていた。


――イノは、優しい。ヤイも、いい子だと思う。



この世界は、酷く意地悪なくせに。確かに、優しさも存在していて。



…この世界を知れば、何か、わかるのだろうか。

帰る方法を、見つけられるのだろうか。

(私は…泣いてばかりだった)

帰りたい、帰りたいと嘆くばかりで、何も知ろうとはしていなかった。何故私がこんな目に、と思うばかりで、真剣に考えようとしていなかった。誰かが答えを教えてくれるのを、求めているだけだった。


さらり、と麻布を撫でてみる。


(…名前を、呼んでくれる人がいた)

たったそれだけのことで、私がどんなに救われたか、きっと彼女はわからない。

ギュッと握って、拳を作る。ズキズキと、傷が鈍く痛んだ。

血が脈打つ、その度に。


「私……生きてるんだ」


私は、確かにこの世界で生きている。世界は、私なんて知ったことではないかもしれないけど、私は今、確かにここで生きているのだ。

まだ、ものすごく、怖い。先のことを考えると、不安で押し潰されそうになる。



(――だけど、)



だけど――。



ほんの少し、前を、向いてみようか。



世界が私を知らないなら、私がこの世界を、知ってみようか。









そう思えた、私は。

少しだけでも、変われたのだろうか。










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