4、イノとヤイ

口からこぼれた、小さなあぶくが、ゆらゆらと浮上していく。

ゆっくりと、ゆっくりと。

水面の、光が、欲しくて。




4、イノとヤイ




話し声がする。女の人の、話し声だ。

誰だろう。なんて言っているんだろう。よく、わからない。水の中にいるように、ぼんやりといろんな音が響いてる。近くなったり、遠くなったり。

何度かそれを繰り返していると、なんだか息苦しくなってきた。たまらず、私はうっすらと目を開く。

すると―――鳥の巣みたいな、白くてボサボサの何かが、視界いっぱいに広がった。

「……」

パチパチと、何度か瞬く。

しばらくして少し視線を下げると、そのボサボサの間から、猫みたいな丸くて大きな瞳と目が合った。

それに、赤い肌に、尖った耳と、口から覗く小さな八重歯。人間の子供ぐらいの、そんな妙な生き物が、私の体に馬乗りになっていた。

数秒の間、私とボサボサは見つめ合う。



そして、一気に、覚醒した。



「わぁぁあああ!」

「わあああ!?」



私が叫ぶと、ボサボサも叫んでひっくり返った。

ころんと綺麗に後転したそれは、ガバリと起き上がると、「姉ちゃん!」と叫びながらどこかへ走り去る。

私も慌てて起き上がろうとして、瞬間、襲った酷い目眩に片手をついた。

「っ……、いったい…」

こめかみを押さえながら、ぐるぐると回る視界で辺りを見回す。

私は粗末な家の中にいて、薄い布団に寝かされていた。板張りの狭い部屋には家具らしい家具はなく、小さな棚が枕元に一つと、障子戸と布団を遮るように衝立があるだけ。障子戸は先程ボサボサが開け放していったため、そこから緩い風が入り込んで来ている。

「あら、本当に起きたの」

ふいに衝立の影から、ひょっこりと女の子が顔を出した。

…女の子、と言っていいのかわからない。人に近いけれど、ボサボサと同じ赤い肌や猫のような瞳をしている。ただ髪だけは透き通るような美しい銀色で、足元まである長いそれを腰の辺りで緩く結っていた。手には水が入った木のお椀を持っている。

思わず凝視する私を気にもせずに寄って来ると、枕元にしゃがんでにっこりと笑いかけてきた。やはり、小さいけれど尖った八重歯が覗いていた。

「気分はどう?あなた、三日も寝てたんだから」

はい、とお椀を渡され、勢いで受け取ってしまったものの、私は混乱したまま彼女を見つめる。

飲まないの?と首を傾げる彼女は、どう見たって人間じゃない。

「あなた…妖なの…?」

思わず呟くと、彼女は琥珀色の猫目を丸くしてから、すぐにケラケラと笑い出した。

「そりゃ、そうよ。私が人間に見えるの?」

――妖、なんだ…。

私は自然と後ずさった。

濃い血の匂いを、思い出す。

「なら…なら、食べるの?私を」

すると、今度は見るからに嫌そうに顔を歪めた。

「まさか!人間なんて食べないわよ、気持ち悪い」

「き…気持ち…」

本当に嫌そうに言うものだから、拍子抜けすると共に、なんだか複雑な気持ちになる。

それより、とお椀を指差されて、私はおずおずとそれを口に含んだ。ツン、とハーブのような香りが鼻につく。首を傾げると、薬草を煎じて冷ましたものなのだと教えてくれた。ゆっくりと全て飲み終えると、女の子が満足したように頷いてお椀を受け取る。

「うん、全部飲んだわね。熱はもう下がってるみたいだし、これでもうしばらく休んだら大丈夫よ」

そう言って立ち上がろうとしたので、私は慌てて彼女の着物の袖を掴んで引き止めた。

「あの…!私、どうしてここに……」

驚いたように振り向いた彼女は、ああそうか、と頷いてもう一度座り直した。

「覚えてないわよね。あなた、倒れてたのよ、滝のそばで。熱は酷いし、怪我もしてるし、まったく動かないんだもの。たまたまヤイと魚を取りに行っててあなたを見つけたから、見過ごせなくて連れて帰って来たの」

「ヤイ…?」

「私の弟よ。さっきあなたが見て叫んだ子」

聞かれてたんだ、と頬が熱くなった。それを見て、女の子は口に手を当て、クスクスと楽しそうに笑う。

「あの子、人間なんて間近で見るのは初めてなものだから、あなたに興味津々なのよ。驚かせてごめんなさいね」

とんでもない、と首を振ると、女の子は目を細めて微笑んだ。そうすると、本当に猫のようだ。

「私、イノっていうの。あなたは?」

「私は…私は、透」

自分の名前を名乗るのは、酷く、久しぶりな気がする。

「透?」

「…、うん」

「透…透。素敵な名前ね」

にっこりと、笑ったイノ。

――――何故か私は、無性に、泣きたくなった。

「……ありが、とう…」

声が、震える。

胸の奥から溢れてくる何かに耐えきれなくて、俯いた。

「だっ、大丈夫?ごめんね、何か気に障った?それとも具合が――」

慌てたようにイノが覗き込んで来るので、両手で顔を覆って激しく首を振る。

違うんだ。そうじゃない、そうじゃなくて。

答えようとしたけど、声が出なかった。次から次へ涙がこぼれて、困らせないように必死に止めようとするのに、止まらない。

「…泣きたいなら、我慢しなくていいわ。大丈夫だから。ね?」

イノが、優しい声で、言った。温かな手が、ゆっくりと背中をさする。



「泣いていいのよ、透」



――――こらえていたものが、どっと押し寄せて来た。

涙は溢れ返り、濁流のように喉を突き破って嗚咽が漏れる。




気付けば私は、子供みたいに、わんわんと声を上げて泣いていた――。



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