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――息をすると、全身が痛んだ。特に背中の痛みが酷い。
無意識に頭を庇っていた腕を広げて、仰向けに転がる。いつの間にか青さを取り戻していた空に、荒い息を吐き出した。
あの気味の悪い声は、もう聞こえない。
「…、痛い…」
痛い。いろんな所が痛い。怪我を確かめる為に体を起こそうとして、背中に走った痛みに息が詰まった。あの突出た木に強く打ち付けてしまったのだろう。泣きそうになりながら、いったん力を抜いて深く息を吸う。
何度か深呼吸をして、ようやく痛みが和らいでくると、両手を付いてゆっくりと半身を起こした。パラパラと身体から葉や土がこぼれ落ちる。
酷い有様だった。土で汚れた制服は所々破けてしまい、腕や足には細かい切り傷や擦り傷がたくさんあった。今はよくわからないが、きっと青痣もたくさんできているだろう。
「なんなの…いったい」
私は、未だに震えが止まらない自分の体を抱き締めた。
ここはどこなのか。あの黒い手はなんだったのか。そもそも、どうしてこんなことになっているのか。
頭の中は、恐怖と混乱でぐちゃぐちゃだった。
膝を抱えて頭を伏せる。意味もなく、涙がこぼれた。
どこかでまた烏が鳴いている。
太陽が真上を少し過ぎた頃、私は重たい腰を上げた。
(――ずっと、こうしているわけにはいかない…)
このまま山の中にいたら、またいつあんなのが現われるかわからない。それに、ここがどこだか確かめなくちゃいけない。
「……山を下りて、人を探そう」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、ゴシゴシと袖で涙を拭う。痛む体を引きずって、私はゆっくりと歩き始めた。
大丈夫。
すぐに、帰れるから。
だからきっと、大丈夫。
幸運なことに、この山はあまり大きなものではなかったらしい。空はオレンジ色に染まり始めていたものの、完全に日が暮れてしまう前に、私は街道らしき道に出ることができていた。
あれから山を下りるまで、黒い手は二度と現れなかった。運が良かったのか、それとももともと滅多に出ないものだったのか。なんにせよ、無事に出られたことにホッとする。もしまた襲われでもしたら、同じように逃げられる自信はなかった。
電柱も街灯もなく、舗装もされていないでこぼこ道をひたすら進む。その間、よほど田舎なのか、人も車も全く通らなかった。
日が沈みかけてから、ようやく人のいるらしい小さな集落を見つけた。
でも、その異様さに思わず眉を潜める。
ぽつりぽつりと建っている家は全て、土壁造りの小さな家。電気は通っていないらしく、やはり電柱などは一本も見当たらない。人の気配はあるのに、どの家にも明かりは灯っていなかった。
私はポケットを探って携帯を取り出す。山の中を歩いている時、動転してすっかり忘れていたその存在を思い出し、慌てて誰かに電話しようとしたのだが、その時は圏外でまったく通じなかった。
今度こそは、と僅かな期待を込めて、見慣れた白いそれを開く。
しかし、やはりというかなんというか、そこには圏外の二文字が表示されていた。
「どんだけ田舎なのかな…ここ」
ため息と共に不安になる。少なくとも、私が住んでいる街の近くには、こんな田舎はない。
再びこぼれそうになる涙を乱暴に拭う。泣いている場合じゃないんだ。
携帯を大事にしまい、一番近くにある家に近付く。ささくれだった引き戸の前に立つと、一瞬ためらった後、思い切って口を開いた。
「あの…すみません!」
…沈黙。
中からは確かに人の気配がするのに。
聞こえなかったのかと思い、もう一度声をかけようとして、突然前触れもなく開いた戸に慌てて口を閉じた。
出て来たのは、もうほとんど髪の白くなった老婆だった。痩せ細り、薄汚れた着物を着て、小さな目は訝しげにこちらを見ている。
「…なんだね、あんた」
しばらく黙っていた老婆が口を開くと、そこから欠けた歯が覗く。ジロジロと上から下まで睨むように眺められ、シワだらけの顔の眉根に、さらに深いシワが寄った。
「あ、あの、私…」
なんだか圧倒されてしまい、上手く言葉が出ない。もともと人と話すのは苦手だというのに、相手の雰囲気はあまりにも私を拒絶していた。
それでも、なんとか震える声を絞り出す。帰りたい、という思いだけが今の私を動かしていた。
「私…あの、私、道に迷ってしまって。ここはどこなのか、教えてくれませんか?」
老婆は、ますます怪しそうな顔で私を見た。
「迷った?こんなところでかい?あんた、いったいどこから来たんだ」
「東京です。東京の――」
続けようとして、口を噤む。老婆の目が険しくなったのだ。
「トウキョウ?聞いたこともない。あんた、あたしをからかってんじゃないだろうね」
「は…?」
思わず間抜けな声を出す。細かい地名ならともかく、東京を聞いたことがない?そんな馬鹿な。
「あの、ここ…ここ、本当にどこなんですか」
嫌な予感がする。
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